トルコ・ヒッタイトの都「ハットゥシャ」にはエジプトのロマンも絡む

トルコ・ヒッタイトの都「ハットゥシャ」にはエジプトのロマンも絡む

更新日:2023/08/04 12:09

万葉 りえのプロフィール写真 万葉 りえ レトロ建築探訪家、地域の魅力伝え人
紀元前に高度な文明を持っていた場所として挙げられるエジプト。そのエジプトと古代オリエントの世界で覇を競っていた大帝国が「ヒッタイト」です。トルコにある「ハットゥシャ」はその首都だった場所。

人気漫画「天は赤い河のほとり」の舞台となったことで、ご存知の方も多いでしょう。争ったり平和を求めたり、今と大きく変わらない人々の思いをこの遺跡に立って感じてみませんか。

古代オリエント史で外すことができないヒッタイト帝国の首都

古代オリエント史で外すことができないヒッタイト帝国の首都

写真:万葉 りえ

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ヨーロッパからアジアにかけての地図を開けば目に入ってくる、黒海、マルマラ海、地中海に囲まれた国、トルコ。その国土の中央にあるのが「中央アナトリア」と呼ばれる地域です。

この辺りは、トルコの首都アンカラも含めて1000m前後の標高をもつ広大な高原地帯。そこにエジプトと覇を競い、高度な文明を築いた大帝国がありました。その国の名が「ヒッタイト」。歴史上はじめて鉄製武器を使用したことなどで知られています。

その帝国の首都だったのが、世界遺産に登録され、現在のボアズカレ村に残る「ハットゥシャ遺跡」です。イスタンブール歴史地区など見所が多いトルコですが、ここは古代オリエント史で絶対に外すことができない大変重要な場所です。

19世紀まで忘れ去られていた遺跡

19世紀まで忘れ去られていた遺跡

写真:万葉 りえ

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寒村に打ち捨てられていた遺跡が発見されたのは1834年のこと。その後ドイツ人考古学者などの指導で発掘作業が始まり、楔形(くさびがた)文字が刻まれた粘土板が多量に見つかったのです。そして、ここがどういう場所だったかがわかっていきました。

ハットゥシャの地に人が住み始めたのは紀元前3000年頃で、そのころはまだ小さな集落にしかすぎませんでした。紀元前2000年頃に騎馬民族のヒッタイト人(旧約聖書のヘテ人)がやってきて、紀元前1800年頃の王がハットゥシャを都にします。やがてバビロニア第一王朝を滅ぼすほど国力を増大させ、オリエントの大帝国となり、紀元前1300年頃に最盛期を迎えたのでした。

全長約6キロもの城壁に囲まれていたこの都市。現在も建物などの基壇や石造りの門が残ります。主な建造物のそばには絵も添えられた説明書きが立っており、往時の様子がわかるようになっています。

ヒッタイトの技術を伝える石造りの門

ヒッタイトの技術を伝える石造りの門

写真:万葉 りえ

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この遺跡では、広大な敷地をぐるっと周れるように見学路が整備されています。ハットゥシャの遺跡の中にはたくさんの中庭を持つ神殿の跡が残されています。その中で一番大きなものが、入り口から近い場所で見えてくる大神殿の跡です。かつてここに、日干しレンガでつくられた広大で複雑な建物がありました。それは今も残る基壇の部分からも想像できるでしょう。

そしてこの中には現在も何のための物なのか解明されていない、美しい緑色をした方形の石も残っています。パワーストーンとも言われ、エジプトのラムセス2世から贈られたといういわれもありますが、真偽は不明。持ち去られることなく残った不思議な石。時間がある方は探してみてください。

さらに進んでいけば見えてくるのが、ご覧の「獅子門」です。

ヒッタイトの技術を伝える石造りの門

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今はアーチ型になっていた門の上部がなくなっていますが、門の両側に立つ獅子はアーチを支えた石柱に彫られたもの。

正面から写真を撮られることが多いと思いますが、ぜひ横からも見てみましょう。近づけばライオンの毛並みの表現までしっかりとご覧いただけます。

ヒッタイトの技術を伝える石造りの門

写真:万葉 りえ

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さらに見学路を進んで南端に近い場所にきたら「YERKAPI」という案内が出てくるので城塞の上のほうまで登ってみてください。そこに残るのが、こちらのスフィンクス門です。こちらも城塞の上に建てられて、城の内と外を分けていた門。

ここでは門の外側になるほうにもぜひ出てみてください。城塞の外側を守るために石で組まれた壁面。この国が持っていた技術の高さの一つを、現在でもしっかりとご覧いただけます。

エジプトとも競ったヒッタイト帝国

エジプトとも競ったヒッタイト帝国

写真:万葉 りえ

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スフィンクス門の近くには、城壁の内と外をつなぐトンネル状になった通路も残っています。戦士をおくりだすためではないかと考えられていますが、今も通れます。ここを通って城壁の内と外の風景の違いを確かめてみましょう。

さて、シュッピリウマ1世という王が治めた時期は、エジプトのファラオとして有名なツタンカーメンが存在した時代と重なっています。

ツタンカーメンの妻だったのがアンケセナーメンでした。ツタンカーメンの死後、王家の血をひいている彼女には、しかるべき人物と再婚して王位を継承していく義務がありました。しかし、再婚相手の候補はかなり年の離れたエジプトの実力者ばかり。そこで彼女はヒッタイト帝国に助けを求めたのです。

エジプトとも競ったヒッタイト帝国

写真:万葉 りえ

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シュッピリウマ1世の息子を自分の再婚相手としてお願いしたアンケセナーメン。その要請にこたえ、息子の中からザナンザ王子がエジプトへ向けて旅立ちました。しかし王子が彼女の隣に立つことはありませんでした。詳しいことは闇の中ですが、ザナンザ王子はエジプトへ向かう途中でエジプト側の陰謀の犠牲になったと考えられています。

また、遺跡の東側には王達の住居だったブユックカレと呼ばれる場所があります。ここの書庫から大量の粘土板文書も発見されたのですが、その中から紀元前1270年にエジプトと結んだ世界最古の講和条約もでてきたのです。

そんなエジプトと競い合った大帝国の姿の一端を現在に伝えるのが、こちらの城塞です。日本の企業も支援しており、当時と同じ材料を使って復元されています。

岩の遺跡「ヤズルカヤ」

岩の遺跡「ヤズルカヤ」

写真:万葉 りえ

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ハットゥシャ遺跡を巡って時間に余裕があれば、ヒッタイトの聖なる場所「ヤズルカヤ」にも行ってみましょう。ここでは宗教儀式が行われ神殿などが築かれていました。今も神々の姿が岩に残り、神秘的な雰囲気をただよわせています。

カマン・カレホユック遺跡は日本の中近東文化センター アナトリア考古学研究所が主導して発掘を行っているのですが、こちらは9000年以上の文化が積み重なった遺跡。そして2018年に世界遺産に登録されたギョベクリ・テペ遺跡は、12000年以上前!

東西、そして南北の文化が行きかったトルコには想像がつかないほど古い遺跡がいっぱいです。ぜひ中央アナトリアの地で、人類が歩んできた時代の一つに思いをはせてみてください。

ハットゥシャ遺跡の基本情報

住所:Hisar, 19310 Bogazkale/Corum
所要時間:徒歩でざっとまわって2〜3時間 

遺跡内を車で移動可
一部の実物は博物館に所蔵

2022年12月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。

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