大阪「岸和田城庭園」永遠のモダンを体現する不朽の庭

大阪「岸和田城庭園」永遠のモダンを体現する不朽の庭

更新日:2023/01/27 17:02

島塚 渓のプロフィール写真 島塚 渓 トラベルライター
大阪府の南部にある岸和田城は、「続日本100名城」にも選出されている近畿地方を代表する城の一つです。天守や二ノ丸を囲む水堀など様々な見どころがありますが、作庭家の重森三玲(しげもりみれい)によって作られた庭園は、現代アートのような雰囲気を持つ人気のスポットです。今回は国内外で評価の高い岸和田城の庭園を中心に紹介していくので、ぜひ足を運んでみてください。

岸和田城の歴史を概観

岸和田城の歴史を概観

写真:島塚 渓

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岸和田城は鎌倉時代が終焉を迎える建武元年(1334年)ごろに楠木正成に仕えた一族によって築かれました。ただ当時の正確な位置や規模は分かっておらず、本格的な天守を備えた城となるのは、戦国武将の小出秀政(こいでひでまさ)が城主となった16世紀後半です。その後、江戸時代には松平氏や岡部氏が城主を務め、明治維新まで岸和田藩として存続します。

岸和田城の歴史を概観

写真:島塚 渓

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当初の天守は文政10年(1827年)に落雷で焼失してしまったため、現在見ることができる天守は昭和29年(1954年)に再建された模擬天守です。内部は資料館となっており、歴代城主の肖像画や郷土資料が展示されています。現在の天守は3層で高さが約22メートルありますが、江戸時代の天守は5層18間あり、今よりもさらに10メートルほど高かったと考えられています。

重森三玲によって作られた斬新なデザインの庭園

重森三玲によって作られた斬新なデザインの庭園

写真:島塚 渓

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天守とともに岸和田城のシンボルとなっているのが、作庭家の重森三玲によって作られた枯山水庭園です。天守の再建と同時期の昭和28年(1953年)に作庭され、地上からだけではなく、天守や上空から観賞されることを前提として設計されています。

重森三玲がデザインした庭園は「永遠のモダン」と呼ばれ、時代を超えても色あせない斬新さと普遍的な美しさを備えています。庭園の研究者としても活躍した重森三玲は古今の庭園の実測調査を行っており、膨大な経験をもとに優れた傑作を生みだしていきました。

重森三玲によって作られた斬新なデザインの庭園

写真:島塚 渓

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八陣の庭とも呼ばれる岸和田城庭園は、三国志に登場する諸葛孔明の「八陣法」をモチーフに設計されています。上段に配置されたた大将の石組を中心に、中段に「虎」と「風」の陣、下段に「天」「地」「雲」「竜」「鳥」「蛇」の陣の石組みが置かれています。諸葛孔明の八陣法は攻めの陣形ではなく、外敵から身を守るためのものだったことから、重森三玲の手記にこの庭園も平和の願いを込めて作られたと書き残されています。

石と砂で表現した枯山水庭園

石と砂で表現した枯山水庭園

写真:島塚 渓

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八陣の庭は、地上から360度周りを歩いて鑑賞可能な庭園となっています。水をいっさい使用せず石や砂で景物を表現した枯山水庭園で、重森三玲が自ら指揮して採取した「紀州青石(きしゅうあおいし)」と呼ばれる石が要所に使われています。紀州青石は暗緑色でツヤのある庭石として古くから重宝されており、その存在感から重森三玲も好んで使用した石材です。

石と砂で表現した枯山水庭園

写真:島塚 渓

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八陣の下段に位置する「竜陣」の石組みは、竜が海から出てきて天に上る様子を表現しています。中央に斜めに置かれた石は、これから天に上ろうとして頭を出した竜の姿を表わし、周りの白砂に波を意匠化した文様が描かれることで、辺りが海であること示しています。抽象的な表現を多用する枯山水庭園では、想像力を働かせ様々なイメージをしながら鑑賞することが楽しむポイントとなります。

岸和田城庭園の基本情報

住所:岸和田市岸城町9-1
アクセス:JR阪和線・東岸和田駅から南海バス「岸和田駅行」終点下車、徒歩10分
拝観料:庭園無料(天守は大人300円、中学生以下無料)

2023年1月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2022/11/26 訪問

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