石のカラト古墳は、近鉄高の原駅から徒歩で約20分ほど歩いた住宅街の中にあります。入り口をみると、一見公園にしかみえません。
しかし、少し中に進んで行くとその先にお饅頭のような盛り土らしきものが見えます。これが、石のカラト古墳です。
石のカラト古墳は、ニュータウン建設にともない、1979年に建設に先立って発掘調査が行われました。そのため、住宅街にあります。
古墳の形は、上円下方墳という珍しい形です。上円下方墳は、明確な例がなくその存在が疑問視されていました。しかし、石のカラト古墳が発見されたことでその存在が証明され、1996年には国の史跡に指定されました。
上円下方墳は、方墳の上に円墳を乗せたような形をしています。上段の円形は直径約9.2m、下段の方形は一辺約13.8mです。古墳というと大きなイメージがありますが、石のカラト古墳は周辺をぐるりと歩いてまわれる大きさです。
石のカラト古墳は、古墳時代の後期につくられました。古墳時代の後期に、薄葬令というものが出され、埋葬や古墳の簡素化・小型化が進んだと考えられています。
古墳には、表面をたくさんの木々に覆われた森のようなイメージがあります。しかし、石のカラト古墳の表面は、盛り土に貼り石(葺石)をした石の山のようにみえます。この姿は、復元整備されたものですが、築造当時も石の山のような姿をしていました。
実は、一般的にイメージされる木に覆われた山のような古墳は、築造当時の姿ではありません。築造当時は、盛り土の上に葺石という石をぎっしり並べた石の山のような姿でした。現在みられている古墳は、長い年月の間に古墳の上に自然にたまった土の上に、木が生えたものです。
古墳の築造時期や形、石室の構造などから考えて、被葬者は皇族だと考えられています。築造時期には2説あります。それは、飛鳥時代(7世紀末〜8世紀初頭)と、平城京遷都以降の早い時期(710年以降)です。
後者の説で有力になるのが、天武天皇の皇子、長皇子と穂積皇子です。天武天皇は、大化の改新の功労者・中大兄皇子の弟にあたります。古代最大の戦乱・壬申の乱で大友皇子を破り、673年に即位しました。
万葉集には、長皇子(?-715)の歌が5首収録されています。石のカラト古墳の最寄駅・近鉄高の原駅に、長皇子が詠んだ歌の万葉歌碑があります。
「秋さらば今も見るごと妻恋ひに鹿鳴かむ山ぞ高野原の上」は、長皇子が佐紀にある邸宅で弟の志貴皇子と宴会をした時の歌です。(訳:秋になると、ほらご覧のようにきまって妻恋いの鹿の声がひびく山なのですよ。この高野原の上は)
この歌が詠まれたのは、長皇子が亡くなった715年以前だと考えられています。佐紀は奈良市佐紀町を中心とする二条町、山陵町などに及ぶ平城宮北方の地域です。高の原駅の南に位置する丘陵は、佐紀山と呼ばれます。「高野原」は、奈良山丘陵の西部にあたる佐紀丘陵を指したものだと思われます。この歌は、「近鉄高の原駅」の駅名の由来にもなりました。
穂積皇子(?-715)の歌も、4首が万葉集に収録されています。穂積皇子は、異母兄妹の但馬皇女との恋愛が有名です。晩年に、10代の大伴坂上郎女を妻としました。大伴坂上郎女は、大伴家持の叔母、大伴旅人の異母妹です。大伴坂上郎女は、万葉集の代表的な女流歌人として知られています。
石のカラト古墳と埋葬施設の形がよく似ている古墳には、高松塚古墳・キトラ古墳・マルコ山古墳があります。これらの古墳は、飛鳥にあります。飛鳥は、奈良県南部の明日香村を中心とした地域です。
石のカラト古墳は、奈良県北部の京都府との境にあります。なぜ、飛鳥から遠く離れたこの場所に、このような珍しい古墳がつくられたのでしょうか?
石のカラト古墳には、ベンチや屋根のある休息場があります。
周辺は、木々が植えられていて野鳥を見ることもできます。ゆっくりとベンチや休息場で過ごしながら、石のカラト古墳の謎について、あなたもぜひ考えてみてください。
住所:奈良県奈良市神功1丁目5/京都府木津川市兜台2
電話番号:0774-75-1216
アクセス:
近鉄高の原駅から徒歩約20分
近鉄高の原駅からバスで兜台3丁目下車、徒歩3分
2023年8月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2024/10/12更新)
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