文豪漱石の住まい!熊本時代に暮らした坪井旧居で文学散策

文豪漱石の住まい!熊本時代に暮らした坪井旧居で文学散策

更新日:2018/10/26 15:35

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家
熊本観光と言うと大抵、熊本城や水前寺、阿蘇山、最近では黒川温泉などですよね。でも、熊本って他にもまだまだ素敵な観光スポットがあるのをご存知ですか?その一つが、今回ご紹介する夏目漱石内坪井旧居です。漱石は、熊本で生活した4年3ヶ月で6回の引越しをしています。その中で5番目の住居で、もっとも長い間暮らしたのが坪井旧居です。漱石が暮らした家が記念館として残っているのは、ここだけなんです!さあ、出発です!

夏目金之助、松山から熊本五校へ赴任

夏目金之助、松山から熊本五校へ赴任

写真:村井 マヤ

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後の夏目漱石(1867〜1916)こと、夏目金之助が松山から熊本に来たのは、明治29(1896)年4月のことでした。親友だった五校(現熊本大学)教授の菅虎雄(1864〜1943、独語学者)に「五校で使ってくれ」と手紙を書いたと言われています。菅虎雄とはお金を借りたり、仕事の世話をしてもらったりと、本当に心友だったのでしょうね。

熊本市街を見て「森の都」と言った漱石は、この時29歳でした。熊本では、鏡子夫人との新婚生活、長女筆子さんの誕生など私生活も大きく変化したのです。実は、この熊本生活って「坊ちゃん」で有名な松山(愛媛県)の生活(約1年間)よりも長い、4年間という長さだというのをご存知でしたか?熊本県民の方も意外とご存知ないのでは?

ちなみに、この坪井旧居は熊本市内にお住まいで65歳以上の方・小中学生の方は無料なのですよ!この機会に熊本県民の方は一度訪れてみては? もちろん県外の方も是非お出かけしてみて下さい!

引越し魔だった?夏目漱石!5回目で巡り合った坪井旧居

引越し魔だった?夏目漱石!5回目で巡り合った坪井旧居

写真:村井 マヤ

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熊本での暮らしは、最初は光琳寺(現在は熊本市下通りのホテルサンルート熊本が建っています)の借家から始まります。最初の家で当時貴族院書記官だった中根重一の長女鏡子と結婚しました。

ここで漱石「衣更えて京より嫁を貰ひけり」という一句を詠んだのでしょうか?
この句は正岡子規への書簡で詠まれた句です。大変質素な結婚式だったようですよ。

その後、転居を繰り返し4番目に住んだ井川淵の家では悲しい出来事も起きました。熊本市を流れる一級河川白川が際を流れ、近くに明午橋が見えていたその家にいたころ、鏡子夫人は流産をして精神的にも不安定になり、白川に投身自殺をはかりました。幸い漁夫に助けられて事なきを得たのですが、漱石の人生に暗い影を落とした事件だったのです。そんな病床にある鏡子夫人を思って詠んだのでしょうか?
「枕辺や星別れんとする晨(あした)」という名句を漱石は残しています。

この後すぐに、内坪井町の住居へ移り住むのでした。

子供にも恵まれ、鏡子夫人も気に入っていた坪井旧居へ

子供にも恵まれ、鏡子夫人も気に入っていた坪井旧居へ

写真:村井 マヤ

坪井旧居跡は、近くに熊本中央高等学校があり、熊本城からもそう遠くなく、宮本武蔵の屋敷跡や、藤崎宮にも近い古い町の面影を残した界隈にあります。

旧居跡は、敷地約470坪で建物は約77坪ほどある大きなお屋敷です。敷地内の庭には、長女筆子さんの産湯に使った井戸や漱石の句碑などが残っています。筆子さんは、漱石が熊本に来て3年目の明治32(1899)年5月31日に生まれました。
漱石はその誕生に際し「安々と海鼠(なまこ)の如き子を産めり」と詠んだそうです。

この屋敷には、展示室として公開されている旧居だけでなく、のちに高名な物理学者で随筆家となる寺田寅彦と関係の深い馬丁小屋も残っています。
展示室には直筆原稿(複製)や漱石の五校時代の写真、漱石初版本等が展示されています。

「吾輩は猫である」の登場人物とも熊本で出会う?!

「吾輩は猫である」の登場人物とも熊本で出会う?!

写真:村井 マヤ

この熊本時代には、夏目漱石にとって、後の文学作品に影響を与えた人々との出会いがありました。例えば、「吾輩は猫である」の多々良三平のモデルは、この坪井旧居より前に住んだ3番目の家である大江の家の書生となった俣野義郎という人物です。
彼は、のちに実業家になったそうですが、なかなか豪快なエピソードを残したユニークな人物でした。

他にも、「草枕」を生んだ熊本県玉名市の小天温泉の旅で、前田案山子(まえだ かがし1828〜1904)という自由民権運動家一家と出会います。ちなみにこの案山子さんの孫は、NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」で、仲間由紀恵さんが演じている蓮子(柳原白蓮)さんの、道ならぬ恋のお相手宮本龍一(モデルは宮崎龍介)の母方の祖父にあたります。宮崎龍介の父親は、有名な宮崎滔天です。知識人の交友関係って素敵ですよね!

前田案山子が「老隠居」娘ツナさんが「那美さん」として「草枕」に登場します。まだ読んでおられない方は、この機会に読んでみて下さいね。(前田別邸や「草枕」関係の詳細は下記MEMO参照)

充実した熊本生活を後にして、英国留学へ

充実した熊本生活を後にして、英国留学へ

写真:村井 マヤ

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漱石の熊本を舞台にした作品には、「二百十日」というのもあります。これは、阿蘇への旅行体験から書かれたと言われています。その後明治33年7月に英国留学のために熊本を離れますが、漱石のその後の暮らしを考えると、熊本時代は比較的豊かで幸せだったのかも知れませんね。

この当時の漱石の月給は百円だったそうです。坪井旧居の家賃は十円くらいだったといいます。現在の価値で言うと給料は100万くらいだそうですよ。高給取りですよね。ちなみに、この気に入っていた家の次にもう一度だけ引越しをしています。その家は、北千反畑町の家と呼ばれ、今でも住居として使われているようです。漱石たちは、坪井の住まいと3番目に住んだ大江の家を気に入っていたそうです。大江の家があったのは今の熊本市新屋敷、白川小学校の裏手あたりです。なお、現在は、水前寺公園の熊本洋学校教師館ジェーンズ邸跡近くに移築されています。(ジェーンズ邸の詳細は下記MEMO「熊本洋学校」を参照)

漱石旧居から熊本文学の旅をスタートしてみて!

熊本には、ほかにも小泉八雲熊本旧居(下記MEMO「小泉八雲熊本旧居」を参照)も併せて行かれてみてはいかがでしょう。また水前寺のジェーンズ邸に行かれたら「熊本近代文学館」にも足を運ぶと、熊本文学通になれますよ!

熊本文学のスタート地点に相応しい「夏目漱石内坪井旧居」に、是非足を運んでみて下さいね。その静かな佇まいが漱石の時代へ誘ってくれますよ。(アクセス等は下記MEMO参照)

夏目漱石内坪井旧居は、熊本城散策の後に行かれるといいでしょう。熊本城観光に関しては下記MEMO「加藤清正の難攻不落の城、熊本城を攻める!」で詳しくご紹介しております。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/05/23 訪問

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