渡来系氏族の古代寺院!京都府木津川市「高麗寺跡」

渡来系氏族の古代寺院!京都府木津川市「高麗寺跡」

更新日:2024/04/04 12:20

乾口 達司のプロフィール写真 乾口 達司 著述業/日本近代文学会・昭和文学会・日本文学協会会員
仏教思想の流入にともない、古代、各地で寺院の建立がはじまりました。京都府木津川市の「高麗寺(こまでら)」もその流れのなかで建立された古代寺院ですが、渡来系氏族の狛氏(高麗氏)によって建立されたと考えられている高麗寺は、平安時代に編まれた仏教説話集『日本霊異記』にも登場する由緒ある寺院であり、近年の史跡公園整備事業により、創建当初の遺構を確認しやすくなっています。今回は高麗寺跡をご紹介しましょう。

飛鳥時代の創建!木津川市の「高麗寺跡」

飛鳥時代の創建!木津川市の「高麗寺跡」

写真:乾口 達司

地図を見る

「高麗寺跡(こまでらあと)」は、京都府木津川市にある古代寺院跡。国道163号線を木津川沿いに走ると、のどかな田園風景の広がるなかに何本かの木が生えている区画が見えてきます。これが高麗寺跡です。

高麗寺跡は木津川北岸の河岸段丘上に整備された古代の寺院跡であり、その創建は飛鳥時代。白鳳時代に入ってから本格的な伽藍の整備がなされたと考えられています。「高麗寺」の呼称は 仏教説話集の『日本霊異記』にも見ることができますが、付近には「狛」の地名が見られることから、古代の渡来系氏族である狛氏(高麗氏)ゆかりの寺院とされています。

飛鳥時代の創建!木津川市の「高麗寺跡」

写真:乾口 達司

地図を見る

そういった貴重な古代寺院跡であるため、戦前から発掘調査がおこなわれており、その発掘の成果にもとづき、1940年(昭和15)には、国の史跡に指定されています。

現地には、それを記念した石碑も建立されています。

飛鳥時代の創建!木津川市の「高麗寺跡」

写真:乾口 達司

地図を見る

発掘調査では、建造物を支えていた基壇の外壁部分が瓦を何層にも積み重ねた形で構築されていたことが判明しています。この瓦積基壇は朝鮮半島から伝わったものとされており、高麗寺が渡来系氏族の狛氏ゆかりの寺院である証ともなっています。

2005年(平成17)からおこなわれた再度の調査終了後、高麗寺跡は史跡公園としての整備がはかられ、現在は発掘された瓦積基壇の状態などが創建当時の形に復元されています。

法起寺式伽藍配置の金堂

法起寺式伽藍配置の金堂

写真:乾口 達司

地図を見る

発掘調査の結果、高麗寺の伽藍配置は、西側に金堂、東側に塔を並立させる「法起寺式伽藍配置」であったことが判明しています。

写真は、伽藍の西側に位置する金堂跡。こちらも瓦積基壇とその周囲にめぐらされていた石敷きの遺構が復元されています。

法起寺式伽藍配置の金堂

写真:乾口 達司

地図を見る

基壇の上には、金堂の柱を支えていた礎石も復元配置されています。

珍しい心礎が見られる塔跡

珍しい心礎が見られる塔跡

写真:乾口 達司

地図を見る

金堂の東側に位置していた塔も、瓦積基壇の上に建てられていました。

塔跡で注目したいのは、塔の心柱を下から支えていた花崗岩製の大きな心礎。直径が約2メートルもあります。

発掘された心礎は埋め戻され、現在は復元された心礎が置かれていますが、復元心礎でも、その規模を推し測ることができるでしょう。

珍しい心礎が見られる塔跡

写真:乾口 達司

地図を見る

復元心礎をよくご覧になると、南側面に穴が開けられていることが、おわかりいただけます。これは「舎利孔」と呼ばれる孔で、仏舎利をおさめるために人為的に開けられたもの。

一般的な舎利孔はしばしば心礎の上面に開けられていますが、側面に開けられているのは、高麗寺跡ならではの特徴です。

講堂跡と回廊跡

講堂跡と回廊跡

写真:乾口 達司

地図を見る

金堂の北側には、講堂が位置していました。

講堂跡と回廊跡

写真:乾口 達司

地図を見る

講堂跡では、礎石もいくつか残されています。こちらの礎石は復元したものではなく、創建当時のものが使われています。

講堂跡と回廊跡

写真:乾口 達司

地図を見る

金堂と塔をかこむように、四方は回廊でめぐらされており、回廊は北面で講堂に接続していました。

中軸線からズレている中門・南門の配置

中軸線からズレている中門・南門の配置

写真:乾口 達司

地図を見る

伽藍の南面には中門、その南側に南門があったことも判明しています。写真は南門跡付近を撮影したものですが、興味深いのは、金堂や塔といった回廊内の中心施設と中門および南門の位置関係。本来であれば、金堂と塔のあいだを南北に走る中軸線上に中門や南門が位置するはずですが、高麗寺では西寄りに立つ金堂と中門および南門が南北に一直線に並んでいるのです。つまり、中門・南門は中軸線よりも西側に位置しているわけです。

その理由ははっきりしませんが、創建当初の高麗寺には塔が存在せず、金堂だけがあったために中門および南門が金堂の真正面に来るように設けられていたのではないかとも考えられます。後年、塔が建立されると、伽藍の中軸線は金堂と塔のあいだに移動することになりますが、中門と南門は中軸線の移動に合わせて東へずれることなく、そのまま金堂の正面に据えられていたと考えられています。

高麗寺跡がいかに貴重な古代寺院跡であるか、おわかりいただけたでしょうか。高麗寺跡をおとずれ、仏教思想が我が国に根付きはじめたばかりの時代の息吹きを感じてみてください。

高麗寺跡の基本情報

住所:京都府木津川市山城町上狛高麗寺・森ノ前地内
アクセス:JR上狛駅より徒歩約5分

2024年4月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2023/12/24 訪問

- PR -

条件を指定して検索

- PR -

この記事に関するお問い合わせ

- 広告 -