戦国の梟雄・宇喜多直家立身出世の地!岡山市の「乙子城跡」

戦国の梟雄・宇喜多直家立身出世の地!岡山市の「乙子城跡」

更新日:2024/05/14 12:02

乾口 達司のプロフィール写真 乾口 達司 著述業/日本近代文学会・昭和文学会・日本文学協会会員
宇喜多直家といえば、戦国時代末期、主君である浦上氏を打倒し、中国地方東部に覇をとなえた戦国の梟雄として、その名を知る方も多いのではないでしょうか。そんな直家が戦国の世に漕ぎ出すきっかけとなったお城が、岡山市東区に残っています。「乙子城跡」です。今回は宇喜多直家立身出世の地というべき乙子城跡をめぐり、若き日の直家の姿に迫ってみましょう。

岡山市東区にある「乙子城跡」

岡山市東区にある「乙子城跡」

写真:乾口 達司

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「乙子城跡(おとごじょうあと)」は岡山市東区にある城跡。裸祭りで名高い西大寺の南方、吉井川の河口近くに位置しています。

写真はその乙子城跡の遠景。乙子城跡は大小2つのお椀をかぶせたような形をした丘陵上に築かれています。丘陵は、古代、児島湾の一角に浮かぶ小さな島ではなかったかと思わせる姿をしており、遠目にも目立っています。

岡山市東区にある「乙子城跡」

写真:乾口 達司

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写真は乙子城跡を東方から撮影したものですが、ご覧のように、東方からは千町川が流れ込んでおり、乙子城が西の吉井川、東の千町川にかこまれた、防禦にすぐれたお城であったことが見て取れます。

1540年代前半、備前国半国を支配する浦上宗景に仕えはじめた直家は播磨・備前の守護大名であった赤松晴政との合戦で武功をあげます。その功績により、家臣30名と300貫の土地を与えられ、1544年(天文13)、ここ、乙子城の城主となりました。当時、直家はまだ10代の若者でした。

岡山市東区にある「乙子城跡」

写真:乾口 達司

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水運業の発展していた吉井川の下流に位置し、児島湾を見下ろす地にあった乙子城は、地政学的に見ると、吉井川水系ひいては瀬戸内海の交易ルートを掌握するための重要な足がかりとなるお城であり、そこに直家が配置されたという点からは、いまだ10代の若者とはいえ、宗景がいかに直家の手腕を高く評価し、その将来に期待を寄せていたかがうかがえます。

事実、直家の活躍はめざましく、5年後の1549年(天文18)には新庄山城に移転。乙子城は弟の忠家に任されました。そして、幾多の戦いで実力をつけた直家はやがて宗景を追放。備前から美作、播磨西部にまで覇をとなえる戦国大名へとのしあがったのでした。その意味で乙子城は直家の立身出世のきっかけとなった出世城であったわけです。

したがって、乙子城跡のそばに、「宇喜多直家国とりはじまりの地」と刻まれた記念碑が建立されているのもうなずけますね。

連郭式の城郭

連郭式の城郭

写真:乾口 達司

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二つの丘陵部から成る乙子城は、本丸と二の丸から成る連郭式の曲輪によって構成されていました。

こちらは本丸側。ご覧のように、頂上部は平坦で、現在はベンチなどが設けられています。本丸の規模はささやかなもので、家臣たちを食べさせるのにも一苦労であった様子。直家の家臣だった戸川氏の残した記録によると、直家は月に3回から5回ほどは食事を抜き、余った米を兵糧として備蓄していたようです。

連郭式の城郭

写真:乾口 達司

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本丸の下には数段の腰曲輪が広がっていました。

曲輪には江戸時代以降に建立されたと思しき墓石が残り、乙子城の廃城後、その一部は地元民の墓地となったことがうかがえますが、画面の右手奥、墓石の背後に石積みが残っているのがおわかりいただけますか?

これは乙子城時代の石積みであると思われます。

連郭式の城郭

写真:乾口 達司

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こちらにも石積みが見られます。本丸とその周辺の曲輪跡にはこういった当時の石積みが見られるため、じっくりめぐってみましょう。

乙子大明神の鎮座する二の丸跡

乙子大明神の鎮座する二の丸跡

写真:乾口 達司

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本丸跡から東に下ると、近年になってから開発された墓地が広がっています。その向こうに見える茂みが、二の丸跡です。

乙子大明神の鎮座する二の丸跡

写真:乾口 達司

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二の丸跡には、現在、乙子大明神と呼ばれる社が建立されています。

後世、社の設置にともなって整地されたせいか、乙子城時代のものと推定される遺構は、表面上、見当たりません。

乙子城跡からの眺め

乙子城跡からの眺め

写真:乾口 達司

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吉井川水系の水運や児島湾の掌握を目的とする乙子城の役割を示すかのように、本丸跡からの眺望は、現在も抜群。

木々のあいだからは、間近に吉井川の河口や児島湾を見下ろせます。

乙子城跡からの眺め

写真:乾口 達司

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画面の中央に見えるのが、毎年2月におこなわれる裸祭りで名高い西大寺。西大寺は奈良時代に創建されたと伝わる古刹で、水運業が発達していた吉井川沿いに立地していたこともあって、当時は商業資本とも深く結びついていました。当然、直家もそのことを熟知しており、乙子城の城主として、日々、同地の商業資本をいかに掌握するか、思案をめぐらせていたことでしょう。

直家になった気分で、本丸から下界を眺めてみるのも楽しいでしょうね。

乙子城の登り口

乙子城の登り口

写真:乾口 達司

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乙子城の登り口は3箇所あり、本丸までの最短ルートは、西側にあるこちら。ご覧のように、神社の参道を登っていくことになりますが、最短ルートだけあって、急坂の連続。足元に注意しながら、お登りください。

乙子城の登り口

写真:乾口 達司

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東側の登り口を登ると、まずは乙子大明神のある二の丸跡に出ます。こちらから本丸を目指すと、比較的、ゆるやかな登り坂で本丸跡まで登れます。

ほかにも、乙子大明神の参道を登っていく南側ルートもあるため、ご自身の体力を考慮し、お好きなところからお登りください。

宇喜多直家の立身出世の地として、乙子城がいかに重要なお城であったか、おわかりいただけたでしょうか。乙子城跡をめぐり、若かりし頃の直家に思いを馳せてみてください。

乙子城跡の基本情報

住所:岡山県岡山市東区乙子
アクセス:「神崎口」バス停より徒歩約:10分

2024年5月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2023/05/05 訪問

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