道長や頼通も眠る!?藤原氏の墓所でもある京都府「宇治陵」

道長や頼通も眠る!?藤原氏の墓所でもある京都府「宇治陵」

更新日:2024/04/22 12:16

乾口 達司のプロフィール写真 乾口 達司 著述業/日本近代文学会・昭和文学会・日本文学協会会員
平安貴族の代表格といえば、藤原氏(藤原摂関家)の存在を外せません。娘を次々と入内させ、絶大な権勢を誇った道長や平等院鳳凰堂を造営した頼通など、歴史に名を残す人物も多く、彼らは天皇に入内させた娘の皇后や中宮らとともに、京都府宇治市の「宇治陵(うじのみささぎ)」に眠っています。今回は陵墓として特異な存在である「宇治陵」を紹介し、権勢をほしいままにした藤原摂関家の栄華の跡をたどってみましょう。

藤原摂関家の墓所でもある「宇治陵」

藤原摂関家の墓所でもある「宇治陵」

写真:乾口 達司

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宮内庁の管理下にある「宇治陵」は、京都府宇治市にある陵墓。宇治市の北方、37箇所にわたって広く点在しています。

写真はその1号墳。周辺に点在する宇治陵の総拝所となっています。

藤原摂関家の墓所でもある「宇治陵」

写真:乾口 達司

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しかし、不思議に思われる方もいらっしゃるはず。本来、陵墓とは皇族の墳墓に対して使われる用語であり、一時期、権勢をほしいままにしたとはいえ、朝廷に仕える一貴族に過ぎなかった藤原氏の墓所に対して使うことは適切ではありません。

そのヒントは、1号墳の脇に立てられているこちらの掲示板に記されています。掲示板には、宇多天皇の女御であった温子以下、「宇治陵」に埋葬されている人物の名前が列挙されていますが、そこに道長や頼通の名前はありませんよね。

実は、狭義の宇治陵は、陵墓本来の規定にもとづき、皇室に嫁いだ藤原氏出身の女性たちや彼女たちが生んだ親王の陵墓となっているのです。

藤原摂関家の墓所でもある「宇治陵」

写真:乾口 達司

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では、なぜ、それが藤原氏の墓所でもあるのでしょうか。それは、彼女たちが、死後、生家である藤原家の墓所に埋葬されたことにちなみます。つまり、藤原家の墓所に皇族となった女性たちのお墓が造営されたため、藤原家の墓所も宇治陵にふくまれることとなったのです。

そのため「藤原氏塋域」と記された石碑も建立されています。

<1号墳の基本情報>
住所:京都府宇治市木幡南山畑34-1
アクセス:JR木幡駅より徒歩約3分

独特な陵墓の形式

独特な陵墓の形式

写真:乾口 達司

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どうしてそのような紛らわしい形態になったかというと、37箇所のどこに誰が埋葬されているか、特定されていないため。

そのことを示すように、宇治陵では、陵墓のそれぞれに被葬者を特定する文言を刻んだ石標は立てられてはおらず、いずれも「宇治陵」と表記されているのみ。これはほかの陵墓とは大きく異なる特徴です。

独特な陵墓の形式

写真:乾口 達司

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それぞれの陵墓を識別するのは、番号のみ。石標の裏側に刻まれた番号によって、ほかの陵墓と区別する措置がとられています。

<3号墳の基本情報>
住所:京都府宇治市木幡南山畑36-14
アクセス:JR木幡駅より徒歩約5分

独特な陵墓の形式

写真:乾口 達司

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内部をのぞくと、37号墳のように、ささやかな土盛りが見られます。平安時代の墳墓は骨蔵器の上に小さな土盛りをほどこし、木や石で塔婆を立てた程度の塚に過ぎず、栄華を極めた藤原氏といえども、墳墓は質素であったことがわかります。

<37号墳の基本情報>
住所:京都府宇治市木幡大瀬戸41-1
アクセス:JR木幡駅より徒歩約3分

古代と中世とが入り交じる宇治陵

古代と中世とが入り交じる宇治陵

写真:乾口 達司

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そのなかには、伝承として、誰の墳墓であるかを示すものもあります。

たとえば、写真の36号墳は「応天門の変」で知られる藤原基経の墳墓と伝えられています。ほかにも、35号墳は「昌泰の変」で菅原道真を大宰府へと左遷させた藤原時平のもの、34号墳は嵯峨天皇・淳和天皇に仕えた藤原冬嗣とその妻の墳墓であるとされます。

ただし、先ほども書いたように、確実なことは不明です。

<36号墳の基本情報>
住所:京都府宇治市木幡東中48
アクセス:JR木幡駅より徒歩約3分

古代と中世とが入り交じる宇治陵

写真:乾口 達司

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注意すべきは、宇治陵のすべてが必ずしも平安時代の墳墓ではないということ。たとえば、写真の14号墳はこれまでご紹介してきたものとは墳丘の規模が明らかに異なります。古墳時代の円墳を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。

そうなんです。宇治陵は被葬者を特定することができないがゆえに、それが定められた明治時代の時点で認識された計146か所の墳墓をかこい込む形で成立したものであり、杉本宏『日本の遺跡6 宇治遺跡群』(同成社/2006年)で解説されているように「埋蔵文化財から見ると、木幡古墳群と木幡墳墓群という二つの遺跡に含みこまれている。すなわち、宇治陵の実像は後期古墳群と古代から中世の墳墓群が混在しているので」す。

<14号墳の基本情報>
住所:京都府宇治市木幡南端30-4
アクセス:JR木幡駅より徒歩約5分

古代と中世とが入り交じる宇治陵

写真:乾口 達司

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したがって、写真の23号墳のように、平安時代の墳墓と古墳時代の墳墓、計73基ほどが入り混じった状態で共存する特異な陵墓も存在します。

<23号墳の基本情報>
住所:京都府宇治市木幡南山畑
アクセス:JR木幡駅より徒歩約15分

宇治陵のさまざまな景観

宇治陵のさまざまな景観

写真:乾口 達司

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宇治陵は各地に点在しているため、陵墓としての景観もそれぞれ異なります。

たとえば、10号墳やその周辺の陵墓は住宅地のなかにあり、一見、民家の敷地であるかのように錯覚してしまいます。

<10号墳の基本情報>
住所:京都府宇治市木幡南山
アクセス:JR木幡駅より徒歩約10分

宇治陵のさまざまな景観

写真:乾口 達司

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かと思えば、30号墳・31号墳は、鬱蒼とした森のなかにあります。

<30号墳・31号墳の基本情報>
住所:京都府宇治市木幡南山18
アクセス:JR木幡駅より徒歩約20分

道長の墳墓は何処?浄妙寺跡

道長の墳墓は何処?浄妙寺跡

写真:乾口 達司

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では、誰もがよく知る道長の墳墓はどこにあるのでしょうか。そのヒントとなるのが、こちらの浄妙寺跡です。

浄妙寺は、1007年(寛弘4)、道長によって建立された寺院。現在の宇治市立木幡小学校の地にありました。

道長の墳墓は何処?浄妙寺跡

写真:乾口 達司

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倉本一宏『現代語訳小右記15ー道長薨去』(吉川弘文館/2022年)の解説によると「頼通が康平五年(一〇六二)に道長の墓を訪れた際の記録(『定家朝臣記録〈康平記〉』によると、墓は木幡の浄妙寺の東に営まれた。浄妙寺の東の『ジョウメンジ(「浄妙寺」の転訛したもの)墓』と通称されていた墓地と茶畑の先のフェンスで囲まれた某修道院の敷地のあたりであろう」とのこと。

写真の奥のあたりがそれに当たりますが、付近からは中国・越州窯製の青磁水注(京都国立博物館蔵)が出土しており、杉本宏は前掲書のなかでそれを道長あるいは頼通の遺骨をおさめた器ではなかったかと推測しています。

<浄妙寺跡の基本情報>
住所:京都府宇治市木幡赤塚4
アクセス:JR木幡駅より徒歩約10分

道長の墳墓は何処?浄妙寺跡

写真:乾口 達司

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宇治陵は立て込んだ住宅地のあいだにひっそりと存在していることもしばしば。参道の入口を探すのにも一苦労することが多いため、入念に下調べをしてから参拝されることをお勧めします。

<4号墳の基本情報>
住所:京都府宇治市木幡南山4-1
アクセス:JR木幡駅より徒歩約5分

宇治陵をめぐり、藤原摂関家の栄華をしのぼう!

宇治陵がいかにユニークな陵墓であるか、おわかりいただけたでしょうか。果たして、道長や頼道はどこに眠っているのでしょうか。実際にご自身の足で宇治陵をめぐり、藤原氏の栄華に思いを馳せてみてください。

2024年4月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2024/01/27 訪問

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