写真:成瀬 康子
地図を見る小さな屋根付きの門をくぐると左に見える建物が、「晩翠草堂(ばんすいそうどう)」。土井晩翠(どいばんすい)が78歳より亡くなるまでの3年間を過ごした家です。晩翠は、明治4年、仙台の大きな質屋の長男として生まれました。
写真:成瀬 康子
地図を見る二間続きの部屋は当時のままに残されています。
彼は帝国大学(現在の東京大学)大学院を卒業後、中学、高校の教師をしながら、翻訳や歴史本の出版、詩集の刊行を手掛け、現在の東北大学の教授となります。
大学では国文学ではなく英文学を学んでいましたが、詩も大変評価されていました。それは東京音楽学校(現在の東京藝術大学)が、音楽教材「中学唱歌」の詞を晩翠に依頼した事からも分かります。
写真:成瀬 康子
地図を見るそして東京音楽学校は、晩翠の詞に合わせる曲を公募し、それに応募し採用されたのが、当時東京音楽学校でピアノを教えていた瀧廉太郎(たきれんたろう)です。こうして日本的な詞に西洋風のメロディが見事に融合した名曲「荒城の月」が生まれました。
晩翠にはその後、校歌の作詞依頼が続き、最終的にはその数300校にもなったというのですから、相当な数ですね!
提供元:佐々木隆二
地図を見るところで、荒城の月の「荒城」がどこを指しているのか気になりませんか?
実は瀧は、自身が住んだ大分県竹田市の「岡城」をイメージして曲を付け、晩翠は、仙台市の「青葉城」や福島県会津若松市の「鶴ヶ城」をイメージして書いていました。
日本各地の故郷のどんな城にも当てはまる普遍性が、このうたが長く歌い継がれてきた理由なのかもしれません。
写真:成瀬 康子
地図を見る晩翠は30歳よりロンドンに留学していますが、明治時代の帝大の英文学、ロンドン留学と聞いて思い出す人はいませんか?そうです、夏目漱石です。夏目漱石は晩翠の4学年先輩でした。日本の文学界の新しい時代の幕開けには、西洋にも明るい人物が必要だったのでしょう。
部屋には、そんな晩翠が翻訳、出版した本などを紹介しているコーナーもあります。
写真:成瀬 康子
地図を見るこちらの建物は、小さいですが趣のあるしっとりした作りです。それもそのはず、設計は小倉強(おぐらつよし)。やはり仙台出身で帝大を出、東北大学の教授となった建築家です。
実は「晩翠草堂」は、空襲で焼け出され、点々と仮住まいを続ける晩翠を心配した教え子たちが寄付を募り、先生にプレゼントした家なんです!氏の人望が窺えるエピソードですね。
写真:成瀬 康子
地図を見るまた、庭に建つ彫刻は、晩翠の親族で彫刻家の吉岡ひろによる作品「壮年の土井晩翠」(1981)です。祖母から聞いた晩翠のイメージで制作したそうで、どこか温かみを感じるのはその為でしょうか。
提供元:佐々木隆二
地図を見る現在、こちらの「晩翠草堂」は仙台市が管理しており、無料で見学できます。仙台を訪れたからには是非立ち寄って、教え子たちに慕われながら明治・大正・昭和を生き抜いた教育者、文学士、土井晩翠の人生を知り、当時の様子に想いを馳せてみてはいかがでしょう。
晩翠がどれだけ仙台市の人々に愛されてきたかは、近くの市道が通称「晩翠通」となっている事からも窺えます。
住所:仙台市青葉区大町1-2-2
電話番号:022-224-3548
アクセス:仙台駅より徒歩12分
2024年6月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2024/10/7更新)
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