石垣遺構は必見!浦上氏の居城・岡山県備前市の「三石城跡」

石垣遺構は必見!浦上氏の居城・岡山県備前市の「三石城跡」

更新日:2024/11/05 12:12

乾口 達司のプロフィール写真 乾口 達司 著述業/日本近代文学会・昭和文学会・日本文学協会会員
兵庫県との県境に近い岡山県の三石地区は、耐火煉瓦の一大生産地として知られているところ。そんな三石地区に「難攻不落」の形容に相応しい山城があったこと、ご存知ですか?「三石城」です。三石城は、戦国時代、赤松氏の守護代として活躍し、やがて戦国大名としての道を歩みはじめた浦上氏の居城であり、城内にはかつての遺構が各所に残されています。今回は浦上氏の栄華をしのばせる「三石城跡」をご紹介しましょう。

岡山県備前市にある「三石城跡」

岡山県備前市にある「三石城跡」

写真:乾口 達司

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「三石城跡(みついしじょうあと)」は、岡山県備前市三石地区にある城跡。三石地区の北側にそびえる天王山山頂一帯に広がる連郭式の山城であり、鎌倉時代末期、同地の伊東大和二郎によって築かれたとされます。室町時代以降、赤松氏が備前国の守護となり、その家臣であった浦上氏が守護代として三石城に入りました。以後、三石城は浦上氏の居城としてあり続けます。

戦国時代に入ると、浦上氏は主家である赤松氏を圧倒。1519年(永正16)、三石城は赤松義村の軍勢によって包囲されますが、当時の浦上村宗はこれを撃退。その2年後には義村を暗殺し、戦国大名としての道を歩みはじめました。いわば、三石城は戦国大名としてのし上がっていく浦上氏の権勢の象徴というべき山城なのでした。

写真は本丸跡付近を撮影した一枚。ここで歴代の浦上氏が暮らしていたのです。

岡山県備前市にある「三石城跡」

写真:乾口 達司

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天王山の山頂付近に築かれた本丸跡は楕円形に整地されており、相当の広さを有しています。

写真は本丸の外縁部を撮影したものですが、縁に沿って少し盛りあがっているのが、おわかりいただけるでしょう。これは本丸をとりかこんでいた土塁の名残りです。

岡山県備前市にある「三石城跡」

写真:乾口 達司

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付近には、人の頭ほどの大きさの石が散乱しています。これは外敵の侵入を防ぐためにそなえられていた軍用石であるとされます。

本丸跡に接続する形で、本丸跡の南面には「二の丸」「三の丸」の曲輪遺構も明瞭に残されています。

各所に残る石垣の遺構

各所に残る石垣の遺構

写真:乾口 達司

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三石城の遺構として、ぜひご覧いただきたいのが、各所に残る石垣の遺構。

写真は大手門を支えていた石垣の遺構です。こちらの石垣がもっともよく残されています。

各所に残る石垣の遺構

写真:乾口 達司

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こちらは「三の丸」直下の石垣。規模は大手門の石垣よりも小振りながら、石積みがしっかりと残されています。

出城・堀切・畝状竪堀群の遺構

出城・堀切・畝状竪堀群の遺構

写真:乾口 達司

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急峻な天王山の山頂付近に築かれた三石城をかつての赤松勢が陥落させられなかったように、その防衛力は抜群。難攻不落という形容に相応しい構えをしています。

しかし、そんな三石城にも唯一の弱点があります。本丸が北側から続く尾根の先端部分に築かれていること。いいかえれば、外敵が北側から尾根伝いに侵攻してくると、陥落の危険性は一気に高まるのです。したがって、尾根伝いに侵入してくる外敵から本丸を守るため、本丸の北側には「鶯丸」と呼ばれる出城(防衛施設)が築かれていました。

写真はその「鶯丸」を撮影したものですが、やはり整地されており、一定の広さを有しています。

出城・堀切・畝状竪堀群の遺構

写真:乾口 達司

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もちろん、鶯丸があるからといって、安心はできません。鶯丸が攻略されれば、本丸は目と鼻の先。したがって、外敵が、直接、本丸にとりつくことのないよう、本丸と鶯丸とのあいだには、尾根を断ち切った形で写真の巨大な「堀切」も設けられています。堀切は岩盤を人力で削り取ったものであり、その高さは見上げるほど。

浦上氏がいかに三石城の弱点を熟知し、その防衛能力を高めようとしていたかがうかがえます。

出城・堀切・畝状竪堀群の遺構

写真:乾口 達司

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堀切から大手門付近にかけて、直下の斜面に目を向けると、いわゆる「畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)」の痕跡も見られます。

畝状竪堀群とは、中世の山城に設けられた防衛設備の一種。畝状をした土塁と空堀(竪堀)とを交互に組み合わせたもので、寄せ手の進入路をこれによって制限し、大人数で侵攻してくることを防ぐ目的で設けられています。

見張所と「千貫井戸」

見張所と「千貫井戸」

写真:乾口 達司

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本丸跡の周辺には、見張所の遺構も残されています。

見張所と「千貫井戸」

写真:乾口 達司

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「千貫井戸」と呼ばれるこちらの井戸は、三の丸の直下にあります。

山城においてもっとも重要なのは、水。三石城でも城内の各所に貯水池がありました。こちらの千貫井戸もそのうちの一つで、現在も水をたたえています。

旧山陽道を眼下におさめる抜群の眺望

旧山陽道を眼下におさめる抜群の眺望

写真:乾口 達司

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第一見張所の跡地からは、ご覧のような光景を眺めることができます。

下界に広がる街並みを貫くように東西に旧山陽道が通っています。そのことからも、浦上氏が三石城を拠点にして、中国地方の大動脈というべき旧山陽道を掌握していたことが読み取れます。

旧山陽道を眼下におさめる抜群の眺望

写真:乾口 達司

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三石城の登り口は、そんな旧山陽道沿いにあります。案内板がないとつい見落としてしまいがちなので、こちらの案内板を目印にしましょう。

旧山陽道を眼下におさめる抜群の眺望

写真:乾口 達司

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案内板から本丸跡までは小一時間もあれば到着しますが、急峻な山道が続きます。転落・滑落の危険性の高い箇所には鎖もつけられていますが、くれぐれも足元に注意して、本丸跡を目指しましょう。

三石城跡がいかに貴重な山城であるか、おわかりいただけたでしょうか。主家の赤松氏を追い詰め、戦国大名としての道を歩みはじめた浦上氏でしたが、赤松氏との抗争はその後も続き、その隙を突くようにして、家臣・宇喜多直家の台頭を許します。

直家は浦上氏を圧倒。赤松氏・浦上氏に成り代わり、備前国は直家によって遂に統一されたのでした。三石城跡を訪れ、戦国大名としての道を歩みはじめながらも夢破れた浦上氏の栄枯盛衰に思いを馳せてみてください。

三石城跡の基本情報

住所:岡山県備前市三石地区
アクセス:JR三石駅より徒歩約1時間

2024年11月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2024/01/01 訪問

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