写真:乾口 達司
地図を見る「郡山城」は奈良県大和郡山市にあったお城。その創建は平安時代末期にまでさかのぼるとされます。戦国時代に入ると、筒井城主・筒井順慶が進出。豊臣政権の成立後は、大和・紀伊・和泉の三ケ国を領有する秀吉の弟・秀長の居城となりました。
秀長といえば、秀吉をサポートし、秀吉自身からも絶大な信頼を置かれていた弟ですが、郡山城がそんな秀長のお城であったこと、ご存知でしたか?
写真:乾口 達司
地図を見る秀長の死後は城主の交代が繰り返されましたが、1724年(享保9)、柳沢吉里が甲斐国より移ってくると、明治の廃藩置県まで、柳沢氏が郡山城の城主としてあり続けました。
写真はそんな柳沢氏をまつった「柳沢神社」。柳沢氏の中興の祖というべき幕府側用人・柳沢吉保を祭神としており、郡山城の本丸の地に鎮座しています。城主としては秀長の方が全国的に知られた存在ですが、江戸時代中期以降、郡山城のあるじとして君臨した期間の長さもあり、地元では柳沢氏の方がよく親しまれているのです。
写真:乾口 達司
地図を見るこちらはそんな柳沢氏の名にちなんだ「柳沢文庫」。郡山藩主時代の柳沢氏や郡山城に関する史料を数多く収蔵する施設です。
郡山城を訪れる折、予備知識を仕入れる目的であわせて訪れましょう。
写真:乾口 達司
地図を見る郡山城の本丸にあるのが、天守台の遺構。近年の発掘調査により、秀長の統治下あるいはその後継の増田長盛の統治下には、すでに天守閣が存在していたことが明らかとなっています。
天守台には長らく立ち入ることが禁じられていましたが、近年の復元整備により、現在は天守台の上までのぼることが可能となっています。
写真:乾口 達司
地図を見る天守台でぜひご覧いただきたいのが、石垣の各所に見られる転用石。転用石とは、その名のとおり、当初、使われていたものが別の目的に転用された石のことです。
その代表格として挙げられるのが、こちらの「さかさ地蔵」です。さかさ地蔵は像高約90センチメートル。左手に宝珠、右手に錫杖を手にした地蔵石仏で、さかさまの状態で石垣にはめ込まれているため、その名がつけられています。
写真:乾口 達司
地図を見る画面中央、一番手前の石にも、何やら加工された痕跡が見られます。ほかにも、寺院の礎石や石塔、日常生活で使われていた石臼まで、750点におよぶ転用石が使われています。
写真:乾口 達司
地図を見る天守台の上には、展望スペースも設けられています。
写真:乾口 達司
地図を見る展望スペースから東を向くと、ご覧のとおり。大和盆地を一望のもとに見渡せます。秀長もまたここから大和一国を眺めたことでしょう。秀長になった気分で眺めましょう。
写真:乾口 達司
地図を見る北の方角に目を向けると、東西両塔を有する薬師寺を眼下におさめることができます。その右奥に見えているのは、世界遺産・平城宮跡に復原されている大極殿。郡山城からは、こういった歴史的な建造物も見渡せるのです。
中世以降、興福寺が守護大名の代わりとして大和国を統治していたように、古来、大和国は寺社の力がきわめて強かった地域です。そんなやっかいな勢力を支配下に置くためにも、大和盆地を見通せる地に立つ郡山城は地政学的に重要な位置にあるお城であったわけです。
そして、そんなやっかいな勢力を相手にするには、行政手腕にすぐれていた秀長は打ってつけの人物でした。秀吉が秀長に大和国を与え、郡山城のあるじとしたのも納得です。
写真:乾口 達司
地図を見る画面中央にかかる橋は「極楽橋」。画面右手の本丸側と左手の「毘沙門曲輪(びしゃもんくるわ)」とを結んでいます。
そのあいだには大きな掘割も見られます。
写真:乾口 達司
地図を見るこちらは毘沙門曲輪の外側(東側)に広がる掘割。満々と水をたたえており、その幅も長大です。
写真:乾口 達司
地図を見る写真は、地元民から「郡高(ぐんこう)」の愛称で呼ばれている奈良県立郡山高等学校。郡山高校が位置する区画は「ニノ丸」と呼ばれていたところであり、かつては多くの御殿が立ち並んでいました。お城のなかに学校があるとは、珍しいですね。
郡山城がどのようなお城であったか、おわかりいただけたでしょうか。近鉄橿原線沿線にあり、アクセスも快適。豊臣秀長ゆかりの郡山城をめぐり、その壮大な規模に圧倒されてください。
住所:奈良県大和郡山市城内町
拝観時間:なし
拝観料:無料
アクセス:近鉄郡山駅より徒歩約7分
2024年10月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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