狭山池博物館や谷山池など南大阪で巡る「重源上人」ゆかりの地

狭山池博物館や谷山池など南大阪で巡る「重源上人」ゆかりの地

更新日:2024/11/08 15:22

菊池 模糊のプロフィール写真 菊池 模糊 旅ライター、旅ブロガー、写真家
重源上人は平安時代末から鎌倉時代初めに活躍した僧侶で、東大寺再興や狭山池改修などを勧進という手法でなしとげました。また宋へ何度も渡海し新宗教や先進土木技術も学び、高齢になっても衆生を救うことに生涯をささげた実践の人です。

南大阪地域は雨が少なく灌漑用ため池が重要で、その造営維持を推し進めた重源は敬愛され多くの伝承が生まれました。南大阪に存在する重源伝説に彩られた場所を巡ってみましょう。

重源の業績

重源の業績

写真:菊池 模糊

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重源上人こと俊乗坊は、奈良時代に干ばつに苦しむ農民を救うべく久米田池(写真)などを築いた行基上人を尊敬していました。それゆえ平安時代末期に平氏により焼かれた東大寺を再興するために61才で復興の中心となる東大寺勧進職についたのです。大仏造立に最も力を尽くした行基の業績をたどるという意識もあったようです。

久米田池と狭山池は両方とも南大阪の主要ため池として、現在も治水と灌漑の役割を果たし地域の役に立っています。

重源の業績

写真:菊池 模糊

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写真の狭山池は少なくとも616年に遡る考古学的証拠が発掘されており、日本最古のダム式ため池です。奈良時代には行基が改修しましたが鎌倉時代初めには荒廃していました。下流の野田荘などの農民の懇願により、一帯の荘園領主たる興福寺は菩提氏族トップの九条兼実に狭山池改修を相談し、東大寺再建で実績のある重源に依頼したのです。

重源は尊敬する行基ゆかりの狭山池ということで快諾し、東大寺再建で培った信者・技術者・有力人脈などを活用し短期間で改修をなしとげるのです。宗教者として困っている民衆を救うという意識もあったのでしょう。なんと重源83歳の時でした。

重源の業績

写真:菊池 模糊

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東大寺改築や狭山池改修では国が金を出すのでなく、勧進という手法が使われました。これはあらゆる階層から浄財をつのり、宗教活動の一環として民衆を巻き込む社会奉仕活動です。

そのため源義経の奥州逃行で有名な勧進帳にあるように、僧侶を主に全国辻浦々に勧進が実施されたのです。重源は大仏図を掲げた6台の一輪車を工夫作成し全国を回ったそうです。重源は高野山で勧進僧を養成する組織にも属しており、民衆教化とともに庶民を救う社会事業を行う勧進聖(かんじんひじり)や高野聖(こうやひじり)という伝統を生み出します。

狭山池博物館に展示されている重源の像(レプリカ)をご覧ください。高齢ですが引き締まった痩身で強い意志が感じられるリアルな傑作です。

大阪狭山池博物館で重源の足跡を見る

大阪狭山池博物館で重源の足跡を見る

写真:菊池 模糊

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重源の行動力には頭が下がります。13歳で出家して以来、四国・近畿・北陸などで厳しい山林修行に明け暮れました。そして羅針盤やジャンク船の本格化で行き来が安全になってきた宋へ三度も渡り、阿育王寺(アショカおうじ)の勧進を請負い材木を送り、浄土信仰などの新しい潮流や建築技術などを学びます。学僧というより実践の人で、陳和卿や九条兼実・西行・栄西・法然・快慶らと強い人脈を築きました。

重源については、狭山池の改修を中心として大阪狭山市にある狭山池博物館に詳しく展示されていますので、ぜひ訪問してください。

大阪狭山池博物館で重源の足跡を見る

写真:菊池 模糊

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重源の狭山池改修については自ら勘案した『南無阿弥陀仏作善集』に書かれているものの具体証拠がなかったのですが、令和改修の際に「重源改修碑文」の石碑が発見されました。

これは江戸時代初の片桐且元による改修の際に埋められたもので、写真のように下向きに置かれていたことが幸いして碑文もほぼ明確に保存されています。内容は重源による改修について書かれており、建仁二年(1202年)の年紀がある貴重なもの。国の重要文化財です。

大阪狭山池博物館で重源の足跡を見る

写真:菊池 模糊

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狭山池博物館入り口付近には、池の堤の断面が分かるように、高さ15m、幅60mの実物の堤が展示されています。これは堤を101個に分割して切り出し、ポリエチレングリコールによる保存処理で強度を高めたもの。もちろん重源が修復した鎌倉時代の堤の部分も分かるようになっています。

重源による樋や石棺など

重源による樋や石棺など

写真:菊池 模糊

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上記作善集に「六段の石樋を伏せた」という記述があり、実際に多数の石棺を利用した
樋も出土しました。これらは頑丈な石製なので風化せず長く有用な役割を果たしました。古墳の石棺を利用するなど、重源の合理的で前向きな考え方が偲ばれます。何より多数の石樋などの重源関係文化財の発見は狭山池博物館建築への強い動機となったのです。

重源による樋や石棺など

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重源が改修した際に使用された石棺製の蓋が、狭山池石樋蓋ということで展示されており、大阪府指定文化財になっています。

重源による樋や石棺など

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博物館外部の池側に重源の改修時に使用された中樋放水部の石棺群がズラッと並べて展示されています。これらは大阪狭山市指定文化財となっています。

<狭山池博物館の基本情報>
住所:大阪狭山市池尻中2丁目
電話番号:072-367-8891
アクセス:南海高野線にて大阪狭山市駅下車、西へ約700m
開館:10:00〜17:00、休館日は年末年始と月曜(祝日の場合翌日)
その他:入場無料で特定の展示物以外は写真撮影も可

谷山池

谷山池

写真:菊池 模糊

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和泉市鍛治屋町から納花町にかけて谷山池という重源伝説のある池があります。ここは地元では俊乗坊を意味する「すいじょぼ池」と親しまれており、池の整備で村の人々を救った重源の石像を祀ってきました。

付近に讃岐姓の人が住むのは重源が整備のために讃岐国から招聘した職人の子孫だと伝わります。これらの真偽については諸説ありますが、少なくとも重源の影響を受けた勧進聖たちが力を合わせて池の修復に尽くしたと想像できます。

谷山池

写真:菊池 模糊

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谷山池にあった重源を祀る石像は改修工事の際に移転され、和泉リサイクル環境公園の日本庭園へ。日本庭園からは谷山池を見下ろすことができます。大切に整備されており参詣する人が多く、今でも重源が敬愛されていることが分かります。

谷山池

写真:菊池 模糊

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谷山池は何段にも続く灌漑池で下流の多くの村々の生活を救ってきました。現在は工事中で再整備されており新たな治水の役割を果たそうとしています。以前はコウノトリやオシドリなどの水鳥が飛んでくる自然豊かな大きな池で、多くの野鳥ファンに親しまれた歴史もあります。

<谷山池の基本情報>
住所:大阪府和泉市鍛治屋町
アクセズ:泉北高速鉄道光明池駅より南海バスで和泉青葉台バス停下車で徒歩20分

西福寺

西福寺

写真:菊池 模糊

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和泉市桑原町に重源ゆかりとされる西福寺があります。ここは、雷除けの寺として知られ、その昔、堂の傍らの井戸に老女が落ちてきた雷を封じ込め、許しを請う雷に「ここ桑原という土地に今後落ちない」と誓わせ逃がしてやったそうです。それから雷鳴が鳴ると「くわばら、くわばら」と言うとのこと。写真はその雷井戸です。

西福寺

写真:菊池 模糊

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雷は天神と関係があり落ちないということから、西福寺は合格祈願の寺としても知られています。この寺では重源は中興の祖とされ、現在も俊乗堂という堂宇があります。境内には重源の墓石とされるものもあり、真偽不明ながら近辺で重源が誕生したという伝説があります。昔から重源に深いゆかりがあると思われます。

西福寺

写真:菊池 模糊

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重源は桑原町の上流にある谷山池を改修し付近の農業に貢献するとともに、宋から水仙の球根を持ち帰り村人にその栽培方法を伝え農民の生活を守ろうとしたそうです。

現在でも桑原町は花卉栽培が地場産業になっており、鎌倉時代に日本最初に栽培された場所として和泉市の「市の花」は水仙となっています。

<西福寺の基本情報>
住所:大阪府和泉市桑原町152
電話番号:0725-41-2354
アクセス:JR阪和線和泉府中駅より南海バスで桑原バス停下車で徒歩1分

南大阪の重源上人ゆかりの地

南大阪には多くの重源ゆかりの地があります。狭山池博物館は土木技術史にフォーカスした個性あふれる内容で、発掘された重源関係の文化財が中心。谷山池は重源伝説が色濃く残る灌漑池で、西福寺は重源を中興の祖とする寺てす。いずれも重源関係のロマンあふれる謎が多く、楽しめますのでお勧めのスポットです。

2024年11月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2024/09/18 訪問

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