写真:乾口 達司
地図を見るセメントを材料とするコンクリート船が開発されたのは、19世紀半ばのこと。20世紀に入ると、その製造技術は飛躍的に向上し、大型船まで出現します。日本では、太平洋戦争中、帝国海軍によって開発・建造がはじまり、複数の船舶が誕生しました。そのうちの一つが「武智丸(たけちまる)」です。その名は建造にたずさわった武智造船所の武智正次郎氏を記念して名付けられています。
そんな武智丸がいまなお残るのは、広島県呉市市の安浦漁港。写真のとおり、船体に大きく「水の守り神武智丸」と記されています。
写真:乾口 達司
地図を見る特徴的なのは、武智丸の現在の姿。2隻の船が連結するようにして並んでいますね。実はこのどちらも武智丸。陸地側(左側)に位置するのが第一武智丸で、沖側(右側)に位置するのが第二武智丸です。
第一武智丸の竣工は、1944年(昭和19)8月。その後、第二武智丸が竣工。いずれも貨物船として活躍しましたが、終戦後、帝国海軍の解体にともない、その役目を解かれました。その後、防波堤のなかった呉市の安浦漁港からの要望もあり、武智丸は防波堤に転用されて、現在にいたっています。
写真:乾口 達司
地図を見る第二武智丸の先端部からは、さらに防波堤が伸びており、先端には灯台設けられています。この姿からも、武智丸が、現在、防波堤に転用さらているのが、よくうかがえるでしょう。
コンクリート船だけでも珍しいというのに、現在、それが防波堤に転用されていること、驚きだと思いませんか?
写真:乾口 達司
地図を見るしかし、船舶とは、そもそも海の上に浮かぶ構造を有しているはず。いくらコンクリートで造られた船であるからといって、単に並べただけでは、打ち寄せる波の影響ですぐにどこかに流されてしまうのではないか?そんな疑問を持つ方もいらっしゃるでしょう。
もちろん、防波堤に転用された武智丸では、その対策もなされています。武智丸が防波堤に転用される工事がはじまったのは、1949年(昭和24)のこと。作業はその翌年には完了しますが、海の下にたくさんの石が沈められていることからもわかるように、船体両側に石が置かれ、船体が固定される措置がなされています。
写真:乾口 達司
地図を見る接岸している武智丸の外側には、たくさんの波消ブロックも積まれています。波消ブロックは波による浸食から船体を守るためのものですが、ここからも武智丸を防波堤として長らく使っていきたいという地元民の思いが読み取れます。
写真:乾口 達司
地図を見る第一武智丸と第二武智丸は、船首同士を突き合わせるように配置されています。したがって、連結部分は歩きにくいですが、現在は甲板に連絡通路が設置されており、そのまま先端部まで歩いていくことができます。
写真:乾口 達司
地図を見る外観を見ると、船体側面には丸い船窓が並んでいることも確認できます。防波堤に転用されたとはいえ、武智丸は確かにまだ船舶としての原型をとどめているのです。
写真:乾口 達司
地図を見る第一武智丸の船尾から眺めると、ご覧のとおり。かつて甲板上にあった構造物の大半は失われています。
写真:乾口 達司
地図を見る船尾にはかろうじて当時の金属がいくつか残されていますが、それも赤錆に覆われた状態が確認できます。
写真:乾口 達司
地図を見る扉も失われているため、光の角度によっては、内部の様子もご覧いただけます。
写真:乾口 達司
地図を見るこちらでは、船内にまで海水が入り込んでいることがうかがえます。
写真:乾口 達司
地図を見る満潮時には甲板上まで水に浸かるせいか、甲板上には貝類の付着も見られます。人工の構造物といえども、放置されると、こうやって少しずつ自然に侵食されていくのですね。
防波堤に転用された武智丸、いかがでしたか。コンクリート船という存在自体が珍しいのに、それがこうやって防波堤になり、いまなお海の安全を守っていることに驚く方も多いのではないでしょうか。現在、船体の老朽化が進行しているため、許可なく甲板上を歩くことは禁じられていますが、外側からでも充分にその珍しい雄姿を目にすることができるため、ぜひともご自身の目で武智丸の遺構をご確認ください。
住所:広島県呉市安浦町(安浦漁港)
アクセス:JR安浦駅より徒歩約10分
2025年1月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2025/2/11更新)
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