写真:乾口 達司
地図を見る高畑地区に鎮座する「南都鏡神社(なんとかがみじんじゃ)」では、天照皇大神・地主神とともに、奈良時代の貴族・藤原広嗣が祭神としてまつられています。
藤原広嗣は藤原式家の祖・宇合の長子でしたが、父親が天然痘で急逝した後、大宰府に左遷されたことを恨み、740年(天平12)、当時の内閣首班・橘諸兄に重用されていた僧・玄ムと吉備真備の排除を訴え、叛乱を起こしました。いわゆる「藤原広嗣の乱」です。事態を重く見た朝廷は大野東人を大将軍とする追討軍を派遣。広嗣は追討軍に敗れ、肥前国松浦郡で処刑されました。
写真:乾口 達司
地図を見る境内に掲示されている「鏡神社小誌」によると、南都鏡神社は広嗣の霊をまつっていた肥前国唐津の鏡神社を玄ムの弟子・報恩が勧請した社であり、もとは近くの福智院(平城清水寺)にありました。その後、806年(大同1)に広嗣の屋敷跡とされる現在の地に移転し、隣接する新薬師寺の鎮守社となりました。
広嗣が藤原氏の出身であることとかかわりがあるのでしょうか。南都鏡神社では、代々、藤原氏の氏神である春日大社の社殿を下賜されています。現在の本殿は、1746年(延享3)、春日大社の本殿(第三殿)を移築したもの。奈良市指定文化財となっています。
<南都鏡神社の基本情報>
住所:奈良県奈良市高畑福井町468
アクセス:奈良交通バス「破石町」停留所より徒歩約10分
写真:乾口 達司
地図を見る南都鏡神社と同じく高畑地区にあるのが、写真の「頭塔(ずとう)」。頭塔は方形の土壇を7段に積みあげ、その周囲に石仏群を配置した階段ピラミッド状の土塔であり、『東大寺要録』『東大寺別当次第』によると、767年(神護景雲1)、東大寺の僧・実忠によって造立されたもの。
この頭塔がなぜ怨霊とかかわりがあるかというと、広嗣の仇敵であった僧・玄ムの頭部を埋葬した首塚であるという伝承が残されているため。広嗣の死後、玄ムは政権から排斥され、筑紫国の観世音寺別当に左遷されました。そして、現地で他界しますが、後年、その死に際して、空中から現れた巨大な手が玄ムを連れ去り、身体をバラバラにしたこと、バラバラになった身体のうち、頭部が天空より落着したところが頭塔の場所であったという伝承が生まれました。
現在では「土塔(どとう)」の呼び名が訛って「頭塔(ずとう)」となり、それが玄ムの首塚伝説と結びついたと考えられていますが、広嗣の怨霊のすさまじさを知るのにもぜひ訪れていただきたいところです。
※…内部の修理工事等のため、現在、頭塔の内部拝観は休止中。外観のみ拝観可能です。
<頭塔の基本情報>
住所:奈良県奈良市高畑町921
アクセス:奈良交通バス「破石町」停留所よりすぐ
写真:乾口 達司
地図を見る広嗣の怨霊によってバラバラにされた玄ムの身体は、頭塔以外の場所にも落ちたといわれています。
弘法大師・空海ゆかりのクヌギ(3代目)をバックにした「椚神社(くぬぎじんじゃ)」の付近一帯は「肘塚町(かいのつかちょう)」と呼ばれており、その名のとおり、玄ムの身体のうち、肘の部分が落着した地であるとされています。
<椚神社の基本情報>
住所:奈良県奈良市肘塚町208
アクセス:奈良交通バス「肘塚町」停留所より徒歩約3分
写真:乾口 達司
地図を見る眉と目が落着したのは、写真の「崇徳寺(そうとくじ)」がある「大豆山町」。「大豆山町」と書いて「まめやまちょう」と読みます。
<崇徳寺の基本情報>
住所:奈良県奈良市大豆山町7
アクセス:奈良交通バス「近鉄奈良駅」停留所より徒歩約3分
写真:乾口 達司
地図を見る八島町には「早良親王(さわらしんのう)」の陵墓があります。
早良親王(さわらしんのう)は、同母兄・桓武天皇が即位したのにともない、皇太弟となりました。ところが、785年(延暦4)、藤原種継の暗殺事件に連座したとされて皇太弟を廃され、淡路国へと流されました。身の潔白を訴える親王は飲食を断ち、配流の途中で絶命しました。
その後、宮廷で新たに皇太子となった小殿親王(後の平城天皇)の発病や宮廷関係者の相次ぐ死去など、親王の没後に次々と災いが発生。親王の怨霊をおそれた朝廷は、親王の遺骸を故郷である大和国に移し、丁重にまつりました。
写真:乾口 達司
地図を見る大和国に改葬された親王は「崇道天皇(すどうてんのう)」と追諡されました。したがって、親王の陵墓は現在も「崇道天皇八嶋陵」として、宮内庁の管理下にあります。
天皇に即位していないものに「天皇」の称号を与えたことからも、朝廷がいかに親王の怨霊を恐れていたかがわかりますね。
写真:乾口 達司
地図を見る崇道天皇陵の前には、「八つ石」と呼ばれる巨石群があります。これは死にのぞんだ親王が投げたとされるもの。親王は9個の石を投げ、石の落ちたところにみずからを葬るように遺言しました。投げられた9個の石のうち、8個は同じところに落下。それがこの「八つ石」なのです。
<崇道天皇陵の基本情報>
住所:奈良県奈良市八島町
アクセス:奈良交通バス「八島町」停留所より徒歩約3分
写真:乾口 達司
地図を見る「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」は、800年(延暦19)、桓武天皇の勅命によって創建されました。祭神としてまつられているのは、井上内親王や他戸親王です。
井上内親王は光仁天皇の皇后であり、光仁天皇の即位にともない、2人のあいだに生まれた他戸親王は皇太子となりました。しかし、772年(宝亀3)、光仁天皇を呪詛したかどで皇后を廃され、他戸親王も皇太子を廃されました。その後、大和国の宇智郡に幽閉され、775年(宝亀6)4月27日、2人は同じ日に他界。その後、都では異変が続出したため、光仁天皇の後を継いだ桓武天皇は2人の祟りを恐れ、社の建立を命じたのでした。
平安時代以降、非業の死を遂げた貴人の怨霊化を封じ、その御魂を「御霊」へと変える「御霊信仰」の成立は、井上内親王・他戸親王の死と深くかかわっているとされています。
写真:乾口 達司
地図を見る御霊神社に参拝すると、足に赤い願掛けひもが結ばれた狛犬を目にします。これは江戸時代から伝わる願掛けの一つで、近年では恋愛成就などの願いが込められたものとなっています。
怨霊封じの社が恋愛成就の社へと変化していくところ、おもしろいと思いませんか?
<御霊神社の基本情報>
住所:奈良県奈良市薬師堂町24
アクセス:奈良交通バス「田中町」停留所より徒歩約3分
華やかなイメージを持つ奈良時代が、それとは逆に、いかに陰惨な権力闘争の繰り返された時代であったか、おわかりいただけたでしょうか。奈良時代には、ほかにも長屋王や橘奈良麻呂、塩焼王、和気王など、政争に敗れ、非業の死を遂げたものたちがほかにもたくさんいます。こういった敗者にも目を向けながら奈良の地をめぐると、新たな発見があるはず。怨霊たちを探して、かつての奈良の都を旅してみてください。
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