名所・鞆の浦とあわせて行きたい!広島の名城・福山城

名所・鞆の浦とあわせて行きたい!広島の名城・福山城

更新日:2018/10/26 15:18

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家
新幹線で大阪・東京方面に向かう途中「福山」駅で停車すると、すごく近くにお城が見えますよね?見たことないですか?実は、西日本の新幹線のホームからこんなに大きくお城が見えるのは、福山城だけなんですよ。東海道新幹線などは、いくつかありますけどね。
鞆の浦観光の折に、福山駅で新幹線や在来線の電車を降りた方は、ご存知ですよね。もし、気になっていたら、お城見学してみましょう!意外な発見があるかもです・・♪

徳川家康の従兄弟・水野勝成公が開いた城下町福山

徳川家康の従兄弟・水野勝成公が開いた城下町福山

写真:村井 マヤ

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1622(元和8)年に、水野勝成公によって完成された福山城は、築城当時は、天守は5重6階で、半地下1階で付櫓を持ち、北面外壁を鉄板張りにした堅固な城でした。この福山城は、徳川幕府の全面的支援のもと、西国の外様大名への睨みをきかせるための城だったのです。福山の城下町形成は、全くの白紙に近い状態から始まり、当時の最新技術を駆使して作られたものだったのです。

福山のお殿様で有名なのは、初代藩主水野勝成公(1564-1651)と阿部正弘公(1819-1857)です。勝成公は、三河刈谷藩主、大和郡山藩主を経て備後福山藩主になります。「鬼日向」というあだ名でも知られる、勇猛な武将でもありました。文化人として有名で、文学特に俳諧を好み、また能も愛しており、自ら舞うこともあったようです。

この勝成公は実は、波乱万丈な人生を歩んでおり、浪人生活も経験し、各地を転々とした風変わりで破天荒なお殿様なのです。徳川家康の実母於大の方は、勝成の父水野忠重の姉で家康とは従兄弟の関係なんですよ。そんな人なのに、なんだかユニークなお殿様ですよね。

まずは国の重要文化財の筋鉄御門(すじがねごもん)から入城

まずは国の重要文化財の筋鉄御門(すじがねごもん)から入城

写真:村井 マヤ

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福山城は、明治維新で城郭の大部分が破壊され、天守は太平洋戦争の空襲で全焼しました。現在の天守は1966年に再建されたものです。その中でも、筋鉄御門は築城当時の姿を留めており、京都伏見城より移築されたものです。伏見城から移築されたものは、ほかにも本丸御殿(伏見御殿)、松の丸櫓(現伏見櫓)、御風呂屋(現御湯殿)があります。

筋鉄御門は、桁行10間(約18m)、梁間3間(約5m)、入母屋造り、本瓦葺の脇戸付櫓門です。頑丈なつくりで、大きくて立派な門ですよ。

伏見櫓は、家康が築いた伏見城松の丸東櫓を移築したもの・・

伏見櫓は、家康が築いた伏見城松の丸東櫓を移築したもの・・

写真:村井 マヤ

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福山城内で、戦火を免れた重要文化財として、本丸西南隅よりに立つ3階建ての伏見櫓があります。これは、総2階建ての櫓の上に小ぶりな望楼を乗せた古風な構造になっています。

本丸には、他に城主の居館として伏見城から移築された伏見御殿や御風呂屋(御湯殿:復元)などがありました。月見櫓、鏡櫓なども復元されています。

阿部正弘公と日本の近代化〜銅像が見上げる鐘櫓〜

阿部正弘公と日本の近代化〜銅像が見上げる鐘櫓〜

写真:村井 マヤ

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福山藩での水野家の統治は、5代・勝岑(かつみね)がわずか2歳で亡くなってお家断絶・お取り潰しの危機を迎えました。けれども、名門の水野家をつぶすことが惜しまれ、勝成の孫・水野勝長が能登国西谷藩1万石に取り立てられ家名は存続しました。

水野家が福山藩主を改易されて、その後2年間ほど天領になり、松平家の支配に入りましたがこれも10年で転封(受領してから9年後に福山に入っているので、福山にいたのは1年です)、ほどなく下野国宇都宮藩(10万石)から阿部正邦が10万石で入封しました。阿部家はこれ以降10代161年間、福山の藩を統治することとなりました。

阿部家は、4人の老中、大阪城代を1人を輩出したように江戸幕府の中枢を担う要職に就くことが多かったため、国元の福山で暮らすことは少なかったようでした。また、水野時代よりも石高が減らされ、財政は苦しかったようです。頻繁に一揆などが起こり、民衆は水野時代を懐かしんだと言います。

そんな中で、超エリート藩主が登場します。阿部家7代正弘公です。なんといってもスピード出世!抜群の政治手腕を発揮した、幕末が好きなら知らない人はいない有名人ですよね。

1854(安政元)年に日米和親条約を締結したり、長崎に海軍伝習所を設立したのも彼の時代でした。

彼の功績を偲ぶ遺品は、福山城博物館や、彼が設立した藩校跡地に立つ「まなびの館ローズコム」などに保存されています。(それぞれ、下記MEMO「福山城博物館」、「まなびの館ローズコム」を参照)

鐘櫓は、丁度筋鉄御門の上に位置しており、「時の鐘」として城下に時間や緊急の合図をしました。城内に残っているのは、珍しいそうですよ。鐘櫓を見上げる位置に阿部正弘公の銅像があります。

天守閣から勝成公の干拓の成果を見渡す・・!

天守閣から勝成公の干拓の成果を見渡す・・!

写真:村井 マヤ

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福山城の天守閣に登ることが出来ますので、是非登ってみましょう!天守からは、福山市街を一望できます。丁度線路を挟んで南側は、デパートやビルが立ち並んでいますが、400年前は葦が生い茂った干潟だったのです。

戦前の古い写真や古地図を見ますと、入川と呼ばれる瀬戸内海につながる掘割があったことが分かります。この水道は鞆の港で積み替えられた荷物を運ぶために作られました。

もともと、海であった場所に城下町を造成したため、井戸水は塩水で飲料水の確保が当初の課題でした。勝成公は、築城とともに上水道の整備に力を注ぎました。城下町を散策すると、そのような遺構も残っていますよ。この福山の上水道は、江戸の神田上水(1590年)、近江八幡(1607年)、赤穂、中津についで5番目に古い上水道だったと言います。

(写真は、福山駅北口からの福山城の眺め)

バラの街福山へ〜勝成公が愛した福山城下町〜

福山駅で電車を降りて、ふっと北側を見ると美しい福山城が目に入ります。春には桜が咲き誇り、福山市民の方々が花見などをして楽しんだり、各種イベントも行われます。福山城付近には、博物館や美術館、文学記念館などが集まり、福山の文化スポットでもあります。6月から7月には、香しいクチナシの花が香る優美な美しい町です。そして何と言っても「バラ」の町でもあるんですよ。福山に来たら、美しいバラの出迎えを受けることでしょう。

福山に来たら是非鞆の浦にも行って下さいね!鞆の浦については、下記MEMO「室町幕府将軍!足利義昭の見た風景〜鞆の浦から福山市津之郷」も参照してくださいね♪

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/07/11 訪問

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