忠臣蔵討入始末記!落語人情噺「徂徠豆腐」の舞台、港区探訪

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忠臣蔵討入始末記!落語人情噺「徂徠豆腐」の舞台、港区探訪

忠臣蔵討入始末記!落語人情噺「徂徠豆腐」の舞台、港区探訪

更新日:2014/11/07 12:31

Naoyuki 金井のプロフィール写真 Naoyuki 金井 武蔵国ナビゲーター、歴史探索ブロガー

荻生徂徠をご存知ですか? 
荻生徂徠は、江戸時代中期に活躍した大儒学者でありながら、「豆をかじりながら悪口を言うのが唯一の趣味」という豪気な性格ゆえに、古典落語「徂徠豆腐」の題材になっているユニークな偉人です。
今回は、この落語の舞台となった港区の所縁の地をご案内いたします。

時は元禄15年正月、江戸中を震撼させた忠臣蔵討入を背景とした人情話です。
それでは「徂徠豆腐」の一席でお楽しみ下さい。

おからの先生は「お灸がツライ」

おからの先生は「お灸がツライ」

写真:Naoyuki 金井

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『江戸の豆腐屋の七兵衛は、元禄15年正月2日早々と行商にでて、増上寺門前の貧乏長屋に行くと25、6才の若者から豆腐を注文されます。食べた後で金がないとツケ払いにさせられ、それが3日間続きました。
訳を聞くと、たくさん勉強して世の中を良くしたいというので、その後も七兵衛は出世払いで良いと言って売れ残りの豆腐やおにぎりを差し入れ、特に味付けの“おから”が好きだったことから、その若者は長屋では「おからの先生」と呼ばれるようになったのです。
ある時、いつもの様に「おからの先生」に差し入れに行くと先生は居らず、「お灸がツライ」と言って姿を消したことを知ったのです。』

若き日の荻生徂徠が住んでいた、この貧乏長屋があったところが増上寺大門周辺です。
当時は大門の手前に桜川があり橋が掛っていましたが、現在は川も橋も見る影もありません。また、貧乏長屋があったであろう辺りには、「だらだら祭」で有名な鎮守の芝神明社があり、若き日の貧乏学生・荻生徂徠と出会えるかもしれません。

江戸を震撼させた「討入り」

江戸を震撼させた「討入り」

写真:Naoyuki 金井

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『七兵衛が、豆腐を差し入れてからほぼ1年が経った元禄15年12月14日〜15日、赤穂浪士が討ち入りを果しました。
その時を同じくした15日の深夜、豆腐屋七兵衛の隣から出た火は、あっという間に燃え広がりあたり一面が全焼しました。
大工の政五郎が、魚藍坂下の薪屋に避難している七兵衛を火事場見舞いに訪れ、ある人の依頼で10両の金を預かったと、その金を七兵衛に渡しました。
10両を受け取った七兵衛ですが、何もわからない金は手が付けられないと、神棚に祀ったのです。』

その七兵衛が避難した薪屋があったのが、現在の魚藍坂下交差点周辺です。
この魚藍坂というのは、坂の中腹にある創建1652年の「魚藍寺」から付けられたもので、江戸三十三箇所観音霊場の第25番札所として賑わい江戸名所図会にも描かれている名刹です。また、魚藍寺の坂上にある「薬王寺」には、俳人・加賀の千代女の現存する「朝顔の井戸」も見ることができます。
魚藍坂で日々信心していた七兵衛の姿が見えるかもしれませんね。

赤穂四十七士「切腹の儀」

赤穂四十七士「切腹の儀」

写真:Naoyuki 金井

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『赤穂浪士討入り後、浪士たちは細川綱利、松平定直、毛利綱元、水野忠之の4大名家に分かれて預けられ、評定の下るのを待っていました
この討ち入りに対しては批判と賞賛が対立し、将軍綱吉や側近の柳沢吉保は死罪か助命かで対応に苦慮したのです。
学者間でも対立しますが、最終的に「浪士の行為は義ではあるが、あくまで私論であって、幕府の許しのない騒動を起こしたのは法で処罰されるべき」という、柳沢吉保に抜擢されていた荻生徂徠の論を採用し切腹が命じられ、元禄16年2月4日赤穂浪士切腹の日を迎えるのです。』

4大名家の中で大石蔵之助が預けられたのが、当時の細川家です。
細川家の跡地は、現在都営アパートとなっていますが、その一画に「大石良雄外十六人忠烈の跡」として切腹の地だけ残されており、更にその細川邸にあった天然記念物の「シイの木」も付近に移植されています。
この旧細川邸のある二本榎通り沿いは、歴史的に貴重な寺院などが数多くありますので、名誉の切腹となった浪士たちの最後の地をじっくり散策してください。

赤穂浪士の眠る地

赤穂浪士の眠る地

写真:Naoyuki 金井

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『一件落着の討ち入り事件でしたが、腹の虫が収まらないのが庶民で、「あんな立派な浪士を切腹させたのは誰だ」という風潮だった頃、不意に大工の政五郎が訪ねてきて、七兵衛夫婦を芝増上寺門前の焼け跡に連れて行きます。
そこには七兵衛の新しい店が建っており、あの“おからの先生”が居たのです。そしてかつての10両とこの新しい店は、“おからの先生”が、七兵衛の差し入れによって出世したお礼のために用意したもので、同時に「お灸がツライ」と言ったのは荻生徂徠と言ったことと判ったのです。
しかし七兵衛は、赤穂浪士を切腹に追い込んだ徂徠からは、店も金も受け取れないと突っぱねたのでした。』

赤穂義士47士が眠る地が、有名な「泉岳寺」です。
泉岳寺境内の一角にその墓所があり、整然と並んでいる墓石には線香が絶えませんが、実は、この墓所には48墓石があり、更に埋葬されているのはそのうち46基という実に不思議な墓所なのです。
それらの謎は現地でわかりますので、泉岳寺を訪れて、忠臣蔵の謎を解いてみてください。

徂徠の眠る場所

徂徠の眠る場所

写真:Naoyuki 金井

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『店も金も受け取れないと断られた徂徠は、七兵衛を説得します。
「豆腐を只食いした自分の行為を出世払いにして、盗人となることから自分を救ってくれたのは、法を曲げずに情けをかけてくれたからです。仇討の心は、まさしく義ですが、仇討は法を犯しているのですから、法を曲げるわけにはいきません。
つまり、私も学者として法を曲げずに浪士に名誉ある切腹と言う最大の情けをかけたのです。それは七兵衛と同じことではありませんか」と法の道理を説いたのです。
七兵衛は納得し、10両も新しい店も全て受け取りました。
そして切腹した赤穂義士も立派だが、先生も大層立派だと褒める七兵衛に徂徠は、「私はただの豆腐好きの学者だ」と謙遜します。

それを見た七兵衛が一言。
「いや、そんなことはねぇ、この店を見りゃぁわかります。先生はあっしのために自腹を切ってくださった」』

荻生徂徠は、魚藍坂と平行する幽霊坂にある「長松寺」に家族に囲まれて眠っており、「徂徠物先生乃墓」と刻まれた墓所は、国指定の史蹟となっています。
多くの門弟を育て、1728年享年63歳でなくなった荻生徂徠を偲んでください。

お後がよろしいようで。。。

江戸古典落語の世界はいかがですか。遠い存在であった荻生徂徠がちょっと身近に見えてきませんか。
まだまだ東京には多くの落語の舞台となった街が沢山あります。あなたの街にも江戸落語の舞台があるかもしれません。
落語の舞台散策で、普段と違った光景を垣間みてみませんか。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/04/01−2014/04/30 訪問

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