ゴッホ終焉の地フランス「オーヴェル・シュル・オワーズ」で最後の71日間をたどる

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ゴッホ終焉の地フランス「オーヴェル・シュル・オワーズ」で最後の71日間をたどる

ゴッホ終焉の地フランス「オーヴェル・シュル・オワーズ」で最後の71日間をたどる

更新日:2014/07/30 17:52

吉川 なおのプロフィール写真 吉川 なお 台湾在住ライター、元旅行会社勤務の旅行マニア

『ひまわり』『星月夜』など数々の名作で知られる画家フィンセント・ファン・ゴッホ。彼は1853年3月30日にオランダのズンデルトで生まれ、1890年7月29日にフランスのオーヴェル・シュル・オワーズで37年という短い生涯を自らの手で閉じました。

人生最後の時を過ごしたオーヴェル・シュル・オワーズには、彼がそこに存在した証しが随所に残っています。その軌跡をたどって、「炎の人」ゴッホをしのびます。

ゴッホの波乱の生涯

ゴッホの波乱の生涯

写真:吉川 なお

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牧師の家に生まれたゴッホは、16歳の時に画商グーピル商会の店員として働き始め、その後教師、本屋、伝道師と転職を繰り返したのち、27歳で画家としてスタートしました。各地を転々とし、いくつもの恋にも破れ、33歳の時にグーピル商会のモンマルトル大通り店を任されていた弟テオを頼ってパリに出ます。そこで多くの印象派の画家たちと知り合い、武骨で暗い絵から明るい色調の作風に変化していきます。

35歳になって心機一転を図るべく、南仏プロバンス地方のアルルに移ります。浮世絵に憧れていた彼は、そこが日本のようだとすっかり気に入り、画家が共同生活するユートピア「芸術家共同体」の実現に奔走します。ただ一人誘いに乗ったポール・ゴーギャンと「黄色い家」で一緒に暮らすようになり、ゴーギャンの部屋を飾るために『ひまわり』の連作を意欲的に制作しました。当初はうまくいくかと思われた関係も画風や芸術観の違いから破綻、ゴッホは平常心を失って自分の左耳を切る自傷行為を起こし、それによってゴーギャンとの共同生活はわずか9週間で終わりを迎えました。

その頃、テオがヨハンナ・ボンゲル(通称ヨー)と結婚。それによってさらに孤独感を感じて情緒不安定になり、てんかんの発作も再発したため、アルルから25キロ離れたサン・レミの精神療養院に入院します。この時期に発作の合間をぬって描かれた絵は、後に名作と言われるものが多く、画家としてのピークを迎えました。彼はまるで襲いかかる狂気を鎮めるかのように絵筆を握り続けたのでした。

やがてテオ夫妻に男の子が生まれ、兄と同じフィンセントと名付けられました。ゴッホは誕生を祝い、後にゴッホ家代々の家宝となる【花咲くアーモンドの枝】を贈り、この頃、初めて自作の【赤い葡萄畑】が売れて、徐々に世間にも認められるようになってきました。

1890年5月20日、画家仲間のピサロの紹介で精神科医のポール・ガシェを頼り、新たな静養地としてパリ北西部のオーヴェール・シュル・オワーズに赴きます。レストラン「ラブー亭」の3階の屋根裏部屋に宿を取り、2カ月という短期間に約70点もの作品を精力的に描きます。しかし自分をめぐるテオ夫婦のいさかいに心を痛め、絶望に陥った彼は、遺作『カラスのいる麦畑』を完成させた後、7月27日夕刻に麦畑で、自らの胸をピストルで撃ち自殺を図りました。ガシェが往診、翌朝テオがパリから駆け付けますが、2日後の7月29日午前1時半にテオに看取られながらこの世を去りました。

悲しみにくれたテオは、兄の作品の展覧会の開催に尽力します。画廊での展示会は実現せず、自宅で開催後に病で倒れ、その半年後の1891年1月25日、兄の後を追うように亡くなります。ゴッホより短い33歳の人生でした。

妻のヨーと息子フィンセントはその遺志を継いで、回顧展の開催や書簡集の出版などゴッホの知名度向上に努めました。その努力あって、私たちはいま彼の作品を鑑賞することができるのです。

「ラブー亭」と「ゴッホの下宿部屋」

「ラブー亭」と「ゴッホの下宿部屋」

写真:吉川 なお

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「親愛なるテオ、オーヴェールはすごく美しい。古いわらぶき屋根の家がとりわけ美しい。本腰を入れて絵を描きたいと思う」。この街はゴッホにさらなる創作意欲をかき立てました。

オーヴェル・シュル・オワーズには、ゴッホの描いた風景やゆかりの場所が今も至るところに残っています。それらの場所にはゴッホの絵の複製パネルが立てられているので、実際の建物と見比べることができます。

駅前のファン・ゴッホ公園に面した町役場もそのひとつで、今もゴッホの絵そのままの姿で建っています。

ゴッホ公園の前にある「ラブー亭」は、ゴッホが生涯最後の71日間を過ごした場所で、1階のレストランは現在も営業を続けています。彼はここの右奥の一人用のテーブルでいつも食事を取っていました。

裏手から薄暗い階段を3階まで上がると、正面に天窓のみのわずか4畳の部屋があります。ゴッホは拳銃を撃った後、苦しみながらこの部屋で息を引き取りました。

今はポツンといすがひとつ置かれているだけで、その殺風景さがより悲しみを誘います。ゴッホの死後は借り手はつかず、120年以上たったいまも時間が止まっているかのようです。
この部屋で寝泊まりしながら絵を描き、苦悩した偉大な画家の心情が伝わってくるようで、胸が切なくなります。

オーヴェルの教会

オーヴェルの教会

写真:吉川 なお

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オルセー美術館所蔵の「オーヴェルの教会」のモデルになった石造りの教会は、亡くなる1カ月前にゴッホが描いたままの姿で、いまも静かにたたずんでいます。

青黒く渦巻く空と屋根の赤、地面の黄緑の対比は強い不安感を、歪んだ教会は葛藤を表現しており、ゴッホの内面の狂気が伝わってくるようです。教会は牧師だった父の象徴であり、二手に別れる道の左側を後ろ向きに歩く女性は母の面影を投影しているようにも見えます。
実際に教会の前に立つと心にぐっと迫るものがあります。

仲良く並ぶゴッホとテオの墓

仲良く並ぶゴッホとテオの墓

写真:吉川 なお

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教会の前の道は、ゴッホとテオの眠る墓地に続いています。ふたりは仲良く並んで永遠の眠りについています。

ゴッホは1890年7月30日にテオのほか、ガシェ医師、友人の画家エミール・ベルナールや画商タンギー爺さんら12名ほどに見送られ埋葬されました。オランダで急逝しその地に埋葬されていたテオの墓は、1914年に妻のヨーによってゴッホの隣に移され、ガシェ医師の庭から移植されたつたが兄弟の絆を示すようにふたつの墓を覆っています。

親兄弟と確執関係にあったゴッホの唯一の理解者で、兄の才能と夢を壊すまいと10年もの間、経済的援助を続けた弟。その献身的な支えあっての人生でした。

墓地の近くにはゴッホが描き、命を絶とうとした麦畑が広がっています。畑の小道を進んでいくと、ゴッホが実際に描いた地点からその風景を眺めることができます。

「炎の人」ゴッホの生きざま

27歳で画家として歩み始め、37歳でこの世を去る10年の間に描いた作品のうち多くがアルル時代とサン・レミの精神病院での療養時代の2年間に制作されています。

テオとの文通は死の間際まで18年間続き、テオとヨーに宛てた手紙は658通現存しています。その手紙の内容から、ゴッホが19歳から死の直前まで何を思い何を考えたか、その生きざまが手に取るように分かります。

「画家は死んでも埋葬されても、作品を通してのちの世代まで語りかける」。この言葉通り、彼が全身全霊で生み出した作品は、私たちの心を揺さぶり続けます。
終焉の地、オーヴェル・シュル・オワーズであなたもその魂の叫びを感じてみませんか。

掲載内容は執筆時点のものです。 2011/05/09 訪問

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