圧巻の赤穂城と見事な縄張・貴重な近代城郭をこの目で体感せよ!

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圧巻の赤穂城と見事な縄張・貴重な近代城郭をこの目で体感せよ!

圧巻の赤穂城と見事な縄張・貴重な近代城郭をこの目で体感せよ!

更新日:2014/08/08 12:17

お濠や石垣を目の前にした時点で、これが五万石の大名クラスのお城なの!?と、目を疑う人も少なくありません。浅野長直が1648年に築城。完成する1661年まで実に13年を費やして築いたのがこの立派な赤穂城です。縄張は江戸時代に大成された兵学「甲州軍学」を用いて設計。貴重な近代城郭として1971年、国史跡に指定されました。城好きもそうでない人も必見!赤穂城の見どころを、じっくり探っていきましょう。

複雑な縄張と山鹿素行

複雑な縄張と山鹿素行
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築城当時は二ノ丸の南半分と、三ノ丸の西側が瀬戸内海に面していたという海城。この縄張(設計)は赤穂藩の家臣で甲州軍学者でもあった近藤正純が設計し、さらに山鹿素行が手を加えて出来上がりました。

まず城地は三方を山に囲まれ、東に千種川、南は瀬戸内海。清水門の南は船が出入りできる形になっています。そして本丸からは本丸を囲むように二の丸があり、同心円状に展開する「輪郭(りんかく)式」。三の丸は本丸の正面にだけ広がる「梯郭(ていかく)式」。この2種を組み合わせたという、近代城郭史上では非常に珍しい変形輪郭式を取りいれているのがユニーク。さらに櫓10箇所、門12箇所、桝形5箇所を設け、枡形虎口を用いた門、右曲りや左曲りの石垣。塁線には「折れ」だけでなく「歪み(ゆがみ)」を取りいれさらに複雑化し防備を強固に。全体的に、戦を強く意識している縄張が特徴です。

甲州軍学を基にしているためそうなったのですが、徳川幕府が始まってからすでに60年。長い間平和が続いてきたこの時代に、なぜ戦を意識した複雑な城が作られたのでしょうか?これらの縄張は、山鹿素行の案による部分が多く、そこに実践的な軍学を唱えてきた彼の思想が見て取れます。
〜武を用いる者は、みずから進んで人倫の道を歩み、生涯を通じて身を律して生きなければならない〜
どんなに平和な世の中にあっても、武道を極めるには常に戦を意識し、自らを律することが大事。油断や気の緩みは大敵だということを、縄張で体現したかったのかもしれません。この思想は後に登場する大石内蔵助と赤穂浪士に、大きな影響を及ぼしました。

大石内蔵助の想い

大石内蔵助の想い
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本丸へは大手門、清水門、塩屋門から中へ入ることができます。清水門、塩屋門はそれぞれ石垣が復元されているので、その石垣を目で見て触れて体感しましょう。また大手門、塩屋門は枡形になっているので、そこも見逃さないでください。横矢が飛んでくることを想像しながら、この門を抜けるのもよし。敵が門から侵入してくるのを待ち構える兵として、眺めてみるのもよし。大がかりな枡形構造は、見ごたえバツグンです。

また、浅野内匠頭長矩が起こした刃傷事件によって、赤穂城を明け渡すことになった大石内蔵助。城を後にしながらこの清水門で振り返り、最後に赤穂城の姿をその目に焼き付けました。城内で生まれ育った大石内蔵助にしてみれば、その胸中はさぞかし無念だったに違いありません。振り返った場所には、像も建てられていますので、そこから赤穂城を眺めてみると、想いが少しだけうかがい知れる気がします。

本丸・二の丸・三の丸!

本丸・二の丸・三の丸!
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1511平方mあるという本丸は、その中に領主屋敷や番所、倉庫、天守台と、「くつろぎ」と呼ばれる兵士の戦時活動場所で構成。御殿(藩邸)は表御殿、中奥、奥御殿から成り、藩主の居間と寝室、台所や風呂が備え付けられた御殿もあったり、書院や使者の間なども設けられていました。現在では、コンクリートの盤上でこれらを床高にし、当時の部屋の間取りを復元。天守台から望むと一望でき、人々の生活が目に浮かぶはず。盤上に降り立ってみると、その広大さにまた驚かされるでしょう。さらに本丸内にある大池泉を始め、坪庭やくつろぎの池泉なども復元が進められ、当時の庭園景観も目にすることができます。

二の丸は輪郭式ですから、本丸をぐるりと囲うような形。三の丸は梯郭式ですから二の丸とは一部の部分が濠でつながる形です。(現在こちらの濠は埋まっています)二の丸には本丸の大池泉庭園と共に、「旧赤穂城庭園」として2002年、国の名勝に指定された二の丸庭園。大石頼母良重(たのもよししげ)の屋敷や、遊水池、米蔵、馬場など。また、三ノ丸には大石内蔵助良雄をはじめとした重臣たちの屋敷、城と熊見川との間には藩の米蔵と船入が備えられていました。

日本初の水道管と日本三大上水道のひとつ

日本初の水道管と日本三大上水道のひとつ
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赤穂城は千種川と瀬戸内海がぶつかる三角州にできていたため、井戸水に海水が混ざることから、飲料水として適しません。「赤穂水道」と言われた上水道は、飲料水を獲得するために、陶や木材によって水道管を作り、約7km上流の千種川から取水。導水路を経て城下町・城内へ配水していました。城内では各戸に給水していたというのも珍しく、緻密に張り巡らされた水路管(水道管)や河川を通って、各戸の井戸へ。もちろん庭園へも注がれていたために、豊かな水を湛えることができたのでしょう。大池泉庭園の造園が可能だったのです。「赤穂水道」は「江戸の神田上水」や「備後の福山上水」とともに、日本三水道のひとつ。江戸時代初期に整備され、昭和まで活躍します。実に300年以上もの間、赤穂の人々の暮らしを支えてきました。

悲願達成には大石神社へ!

悲願達成には大石神社へ!
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「忠臣蔵の討ち入り」と言えば、知らない人はいないほど有名な話。その指揮をとったのが大石内蔵助です。後に義士と呼ばれることになるその生き様は、多くの人の心を掴んで離さなかったのでしょう。大正元年、大石内蔵助をはじめ四十七士を祀る神社として、「大石神社」が建てられました。この場所は、大石内蔵助や家老・藤井叉左衛門の屋敷跡、近藤源八の長屋跡地。一見すると赤穂城に隣接した城下町内の神社かと思いますが、実はここも赤穂城内です。三の丸部分に位置し、大手門からほど近い場所。赤穂城本丸を見て回ったなら、ここまで足を伸ばしてみましょう。大石内蔵助たち武士の生活ぶり、本丸とを行き来していた当時の面影が感じられるはずです。

近藤源八宅跡は見学でき、前述した上水道を垣間見ることが可能。井戸は必見。深く掘った井戸ではなく、あくまでも上水道であることが見てわかります。実は、近藤源八宅は赤穂城の縄張を行った、近藤正純の息子宅でもあります。

神社内には、国指定史跡の大石邸長屋門や大石内蔵助が愛した庭園、討入りの際の衣装や遺品。四十七士の木彫りの像などが展示されている義士宝物殿があります。浅野家が断絶してから城主となったのは森家。その祖先でもある、森蘭丸も祀られていて、歴史好きには見どころが満載。悲願の討ち入りを果たした大石内蔵助と四十七士にあやかり、大願成就のご利益があります。悲願を達成したい方は、ぜひ訪れてみてください。

参拝時間 午前8時〜午後5時
TEL 0791-42-2054
料金/大人:420円、中学生以下:無料 (団体割引あり)
駐車場 乗用車100台(無料)

おわりに

刃傷事件、忠臣蔵の討ち入りという劇的な物語によって、大石内蔵助及び四十七士の人気は今でも衰えることがありません。ただ、大石神社に足を運ぶ人は多くても、その先の赤穂城まで行くと、ほとんど人影は見当たらないのです。

国の名勝にも指定された本丸庭園、二之丸庭園や、石垣、門、櫓など文化財の修復・復元は今も着々と進められています。入城は無料ですし、都市公園としての整備も進めている最中。地元の人々には憩いの場として、遠くから訪れる方も赤穂を知るうえでぜひ、お城まで足を伸ばしてみてください。

【開園時間】9:00〜16:30
入園は年中無休(本丸庭園のみ12月28日〜1月4日は閉園)
土日は櫓も見学可能
【料金】無料

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掲載内容は執筆時点のものです。 2014/06/02 訪問

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