もう一つの開国の舞台、日露友好発祥の地を探る旅〜沼津市戸田地区〜

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もう一つの開国の舞台、日露友好発祥の地を探る旅〜沼津市戸田地区〜

もう一つの開国の舞台、日露友好発祥の地を探る旅〜沼津市戸田地区〜

更新日:2014/08/14 17:50

sachieのプロフィール写真 sachie 伊豆史女、伊豆専門ナビゲーター

「開国」と言えば、アメリカのペリー提督が、静岡県の下田・北海道の函館を開港したのが有名な話。その話の裏で、時を同じにして日本に開国を迫ったロシアがあります。ロシアは、地震によって船が壊れるなど、開国は一筋縄ではなく、波乱万丈に満ちた運命でした。
さて、その運命とは? そんな思わぬ開国の舞台となった沼津市戸田地区を巡って、歴史の面白みを感じる旅はいかがでしょうか。

凛々しい顔立ち

凛々しい顔立ち

写真:sachie

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こちらの写真は、時のロシアの使節、プチャーチン提督。宿泊しなければ見られませんが、磯割烹の宿「山市」のロビーに飾られています。ロシアのプチャーチン提督は、下田と函館の2つを開港するなど、日米和親条約を締結したアメリカに続けと、約500人の水兵を従えて、1854年(安政元年)軍艦ディアナ号で下田に入港。日露和親条約締結に挑みました。

しかし、11月4日に発生した、安政の大地震の津波によって、乗っていたディアナ号が大破。長い航海ができなくなってしまうほどの損害を受けました。
この地震によって、下田の町は860戸の家屋のうち、813戸が流されるなど壊滅的なダメージを受けました。幕府の役人と相談の結果、ディアナ号の修理は西伊豆にある戸田地区に決定され、戸田までは他の船で引っ張って運ぶことに。

下田から戸田へ向かう途中、駿河湾に吹き荒れる風や高波によって、ディアナ号は宮嶋村(現在の富士市)沖で座礁。地元の漁師達の船で引っ張りましたが、再び強い風に遭い、ディアナ号は遂に沈没。
船を失ったプチャーチン提督と水兵の一行は、沈没した宮島から戸田まで、歩いて行く事になりました。現在では、車で約2時間足らずで行けますが、当時は2日かけて歩いたそうです。

洋式帆船建造の地

洋式帆船建造の地

写真:sachie

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ディアナ号に代わる船を造るよう幕府から命じられ、船が造られたのが、沼津市戸田地区にあるこの場所。地区を通る県道17号線沿い、戸田漁協から土肥方面へ車で約1、2分の所にあり、現在ここは「造船記念碑」が建てられています。

幕府の要請とは言え、急に何のノウハウもなく洋式帆船を作ることになった戸田の人達。地震でこの村も被害を受ける中、500人もの水兵を一度に受け入れ、その上、初めて見る外国人にたいそう驚いたことでしょうね。

船の設計図は、ディアナ号から運び出された設計図を基に造られたそうで、言葉の壁が生じる中、作成されたそうです。運よくロシア側との双方に、オランダ語を話せる人がいたので、ロシア語からオランダ語、オランダ語から日本語に置き換えて行われたそうですよ。

ここで造られた船は、日本で最初に造られた西洋型帆船。後の日本の造船技術の発展の基になった凄い場所で、今日の造船技術に結びつくスタート地点でもある重要な場所です。ここには、記念碑だけでなく説明看板も設置してあるので、詳しく知ることができます。

日本初の西洋型帆船!

日本初の西洋型帆船!

写真:sachie

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船を造る上で活躍したのが、戸田の船大工や造船工事を直接指揮した8人の造船御用係。
その御用係の1人に、先程紹介した写真が飾られている磯割烹の宿「山市」の祖先、山田平左衛門や現在のIHI(旧石川島播磨重工業)の基礎を造った船大工の上田寅吉など、素晴らしい技術者がいたそうです。

1855年(安政2年)3月、造船開始から約2ヶ月かけて完成したのが「ヘダ号」。
日本で初めての西洋型帆船で、全長は25m。ちなみに、プチャーチン提督が乗っていたディアナ号の全長は約52m。ヘダ号の大きさは、ディアナ号から比べたら小さな船ですが、この造船が日本にとって画期的な造船技術をもたらしました。こちらは、そんなヘダ号の模型。

模型は「戸田造船郷土資料博物館駿河湾海洋生物館」の1階に展示されています。博物館の2階では、旧ソ連政府がディアナ号の設計図から忠実に再現されたディアナ号の模型と、もう一つのヘダ号の模型とを見比べることができます。この2つの模型と、博物館に収蔵されているヘダ号の設計図・当時使用されていた大工道具は、経済産業省から近代化産業遺産に認定されていて、一見の価値あり! 近代造船の礎となった凄い品々を見ることができます。博物館の前では、引き上げられたディアナ号の実物の錨を見ることもできますよ。

博物館は、戸田港に突き出た御浜岬の先端にあって、岬の海岸は、夏は海水浴で賑わう白砂青松が美しい海岸。この突き出た岬が目隠しになるため、他の場所から見えづらく、造船の適地と決定的な条件になったそうです。そんな岬には遊歩道もあるので、色々なことを考えながら散策しても楽しそうですね。

宿泊所になった寺

宿泊所になった寺

写真:sachie

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船が出来上がるまで、プチャーチン提督と上官の宿所となったのが、こちらの宝泉寺。
県指定史跡になっていて、戸田で最古の寺院です。境内にはロシアの水兵の墓があり、歴史を散策する上で、見逃せない見所。

ここに所蔵されていたプチャーチン提督の椅子や、使用していたナイフ・フォークなどの日用品は、先程紹介した博物館に展示されています。フォーク一つとっても、花柄がデザインされるなど、高貴さが感じされ、当時の日本との文明の発展差も感じられます。

宝泉寺は、戸田漁協前のスーパーの横道を真っすぐ進んだ場所にあります。寺の北側は、現在は畑になっていますが、かつて水兵500人が住んでいた仮設住宅跡もあります。

日露交渉跡地

日露交渉跡地

写真:sachie

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変わって、こちらは大行寺。下田で締結された日露和親条約の改訂がされた寺で、県指定史跡になった古刹。近代造船の父「上田寅吉」の菩提寺でもあり、戸田地区を流れる大川沿いにあります。

条約の改訂は、下田で開国の交渉にあたった勘定奉行の川路聖謨(かわじとしあきら)のおかげで行われたそうです。川路聖謨は、幕府とプチャーチン提督の中をとりもち、条約までの日々やロシア人のことなどを「長崎日記・下田日記」に記した人物。

言葉が通じない中、川路と初めて会ったロシア側は、知的で賢く聡明との印象を受けたようで、幕府にとっても有能で真面目な性格の人物だったようです。紹介した博物館では、この川路についての資料も公開されているので、知りたい方は是非どうぞ!

おわりに

プチャーチン提督は、ヘダ号に乗って1855年(安政2年)3月、ロシアへ帰国。博物館では、来日したプチャーチンの孫娘「オルガ・プチャーチナ」や、帰国する際、ロシアに密航した橘耕斎についてなど、あまり知られていない面白い秘話も知ることができますよ。

博物館は、原則写真撮影禁止ですが、入口にあるヘダ号の模型は撮影が可能。撮影する際は、一言声をかけるなど、マナーを守って下さいね。博物館には、駿河湾に生息する約300種の深海生物の標本・剥製が展示された生物館が併設されています。

港にある観光協会では「ぶらり戸田 歴史の散歩道」があって、地図を片手に迷うことなく歩くことができます。重要文化財になっている、造船御用掛の「松城家」など、歩かないと分からない知られざる歴史がまたまだたくさん! 磯割烹の宿「山市」に泊って、温泉にゆったりと浸かって巡ってみても良いですね。

不思議な縁で、造船場所となった戸田。日本とロシアの友好の発祥の地にもなった場所で思いを馳せながら巡ってみるのは、いかがでしょうか?
想像をかき立てながら巡る旅は、案外面白いものですよ。

掲載内容は執筆時点のものです。 2011/08/30−2014/07/30 訪問

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