写真:塚本 隆司
地図を見る室津のあたりは断崖絶壁が播磨灘と面するなかを国道250号線がはしる 。“七曲(ななまがり)“の名を持つほどに曲がりくねった道の途中、眼下に見える入江が室津だ。
三方を絶壁と岬に囲まれ底も深いと見える入江は、天然の良港として古くから名を成したようだ。「播磨国風土記」にも「この泊、風を防ぐこと室のごとし」と名の由来が残る。江戸時代には、室津千軒とも呼ばれ、この地方の代表的な商業地であったが、その痕跡を眼下の港町から感じるのは難しいほどに小さい。
司馬遼太郎も著書「街道をゆく」の中で「湾は意外に小さい。湾の小ささが、室津の風情をいっそう濃くしている。」と書いている。
室津に来たならば、是非歩いてみることだ。
室津が最も栄えたのは江戸時代。古くから海上交通の要所であり回船業が栄え「室の船頭」による商品輸送が盛んであったことから、北前船の寄港地としてさらに発展していく。
西国の大名は瀬戸内海を船で参勤交代をするため、室津は諸大名の宿港となる。最盛時には6軒もの本陣があり、利用した大名家は70を数える。他にも江戸参府(出島での通商を許されたオランダ人が将軍への拝礼を行うこと)や、朝鮮通信使(朝鮮からのおよそ500名からなる使節団)の寄港地としての役目もあり、大変な賑わいであったろう。歩いてみると当時を示す道標がいくつか建っている。
現在、資料館として残る室津海駅館は回船問屋「嶋屋」(たつの市指定文化財)、室津民俗館は姫路藩御用達の豪商「魚屋」(兵庫県指定文化財)と、室津独特の貴重な町家の遺構だ。
写真:塚本 隆司
地図を見る写真:塚本 隆司
地図を見る本陣の建物が今に残っていないのは残念だが、本陣だけでは宿をまかないきれなかったようで、現存する先の商家も本陣と類似した構造になり宿泊宿となっている。随行人のために一般民家までもが宿が割り当てられていたようで、町全体が影響を受け今の風情を作り出したに違いない。
ただ、時代が明治となり船も近代化が進む中で、この港町はその役割は終え時代にとり残されていく。今では漁師町として、播磨灘の上質な魚で地元民の食卓を賑わしてくれている。近年では牡蠣の養殖も盛んで「室津の牡蠣」には誰もが納得する美味さだ。
漁港である室津での食事となるとやはり播磨灘の魚。先に述べた牡蠣もシーズン中なら外せないし、播州の秋祭りにはシャコやワタリガニはなくてはならない。司馬遼太郎や竹久夢二・谷崎潤一郎も逗留した料理旅館もある。文人墨客もこの室津を気に入ったようだ。
写真は、直径30cmはある大きなフタ付きの椀に、たつの市特産である手延べそうめん「揖保の糸」と旬の魚を丸ごと一匹素揚げにした名物「大名にゅうめん」。この料理を提供しているのは、道の駅「みつ」。オーシャンビューの店内で室津の味を満喫できる。他にも海鮮バーベキューなどあり、海の幸や特産品を満喫できる。
写真:塚本 隆司
地図を見る写真:塚本 隆司
地図を見る室津ではひな祭りは3月ではなく、八朔の日(旧暦の8月1日)に行われるのが古くからの習わしだという。
それには悲しい物語がある。
永禄9年(1566年)1月11日のこと。室津は室山城主浦上政宗が領する地であった。その子(弟とも孫とも)宗景は姫路の黒田家から輿入れしてきた姫との婚礼の最中、敵対する龍野城主赤松政秀の急襲にあい、当主もろとも花嫁も命を落とすのである。
これを不憫に思った領民は花嫁の鎮魂のため、半年おくれの八朔の日にひな祭りを行うようになったと伝わっている。
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」でも官兵衛の幼なじみであり初恋の人であった「おたつ」が黒田家の養女となり嫁いでいき、この悲劇に遭遇するのである。
たつの市では、戦後長く途絶えていたこの風習をまつりとして復活させ、平成26年で12回目を迎える。平成26年8月23日(土)〜8月31日(日)の9日間室津地区の各所でイベントが実施される。
山間の宿場町が交通網の発達によりとり残されていったように、海の宿場町も同様にその役目を終え、時代に適合する形で開発されていく。多くの港は、その立地から大規模開発されていくなかで、ここ室津は人々が生活をする場として残り続けたことに感謝したい。かつての繁栄を僅かに感じさせる古い港町の風情がここにはある。是非歴史の痕跡と海の幸を求めて、足を運んで頂きたい。
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(2023/12/3更新)
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