信長坂から愛知県豊明市「桶狭間古戦場伝説地」へ突撃!!

信長坂から愛知県豊明市「桶狭間古戦場伝説地」へ突撃!!

更新日:2014/08/13 16:53

旅人間のプロフィール写真 旅人間 はらぺこライター、旅ブロガー
日本史上で最も劇的な合戦の一つ「桶狭間の合戦」。通説によると2万5千の今川軍をわずか3千の兵で織田信長が打ち破ったとされ、今も多くの謎を残しています。
この古戦場跡は愛知県の豊明市説、名古屋市緑区説と2説あり、名古屋市側の方が優位との声もあります。しかし実際に古戦場周辺を歩いてみると、無念仏を弔った石仏が多い豊明市説も有力と言えます。では、信長が奇襲をしたと言われる釜ヶ谷から検証してみましょう!

織田信長が雷雨の中で奇襲の機を狙った場所「釜ヶ谷」の信長坂!

織田信長が雷雨の中で奇襲の機を狙った場所「釜ヶ谷」の信長坂!

写真:旅人間

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名古屋短期大学の校内に興味深い場所が残っています。それは織田信長が今川義元の本陣へ奇襲直前にたどり着いたと言われる「釜ヶ谷」と言う場所。そして信長が奇襲の際に駆け上がった坂は「信長坂」として残っています。

この地に伝わる一説によると、信長は激しい雷雨の時、密かにこの地(釜ヶ谷)に到着します。そして信長が奇襲の機を狙い様子を窺ってる時に大きな落雷があり、高所に陣取っていた今川軍は落雷により混乱が生じ、兵たちは恐れ槍を手放してしまいます。
その混乱を知った信長は「時は今!」とこの釜ヶ谷の坂(信長坂)を一気に駆け上がり、今川軍の右翼に突撃、そして義元の神輿を見つけると一斉に総攻撃し、劇的な勝利となったと言われています。

名古屋市緑区側の今川義元本陣跡と言われる「おけはざま山」

釜ヶ谷の「信長坂」にある案内看板を見ると、この坂を駆け上がった信長は「おけはざま山」に向けて突撃したと書かれ、その場所は信長坂から僅か600mほどの名古屋市緑区の閑静な住宅街の中にあります。

激しい雨と落雷の中、信長は「おけはざま山」の今川軍の本陣を奇襲します。悪天候に加え突然の奇襲に今川軍は大混乱となるが、今川義元の旗本はを義元を中心に300名ほどで円陣を組み果敢に応戦します。そして旗本は義元を守りながら退却を始めます。
ところが士気が上がる一方の織田軍は攻めに攻め突撃を繰り返し、義元を逃がす隙を与えません。午後1時頃に開始した奇襲は激闘の末、午後4時頃に義元は田楽坪に押しやられ総崩れに・・・そして、ついに今川義元は討ち取られてしまうのです。

名古屋市緑区側の今川義元本陣跡と言われる「おけはざま山」

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豊明市側の高徳院の中にある「今川義元本陣跡」

名古屋市側の説によると緑区にある「おけはざま山」に、豊明市側の説では現在の「高徳院の敷地内」に今川義元の本陣があったとされています。どちらの説が正しいのかは現在も定かではありませんが、名古屋市側の方が今川軍の武将の陣地や信長の進軍ルート、また義元を討ち取った時の様子など具体的な仮説が多いことから名古屋市側有利との声が上がっています。

しかし桶狭間の古戦場周辺を実際に歩いてみると、名古屋市側は閑静な住宅街になっているのに対し、豊明側は寺院の中にあり周辺には沢山の石仏があり、夕暮れ時になると寂しい雰囲気が漂い、その印象は全く対照的なものとなっています。

豊明市側の高徳院の中にある「今川義元本陣跡」

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豊明側の古戦場付近には無念仏を弔った石仏が無数に…

釜ヶ谷にある「信長坂」から南に行けば名古屋市の古戦場方面で、東に行けば豊明の古戦場方面となります。桶狭間の合戦は今から400年以上も前の1560年のことで、この地域の様子は当時と全く違ってて当然。だから表面的な地域的な表情をみて事実を見極めるのは非常に難しいことですが、それにしても豊明側の古戦場付近には無念仏の石仏の数があまりに多くあります。また、この周辺では亡霊がよく出たと言われ、1853年に「おばけ地蔵」を建立し、それから亡霊は出てこなくなったと言う逸話も残っています。

豊明側の古戦場付近には無念仏を弔った石仏が無数に…

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今川義元の墓と戦死した場所を示す「七石表」

豊明市にある桶狭間古戦場は「桶狭間古戦場伝説地」と呼ばれ、ここには今川義元の墓があります。また「七石表」と呼ばれる7つの石碑があり、これは今川義元をはじめ武将が戦死した場所を示したもので、一号碑は今川義元の戦士の場所、二号碑は重臣であった松井宗信戦死の碑、そして三号碑から七号碑までは名前は分かっていませんが義元の側近であっただろう重臣5人が戦死した場所を示したものになります。
今川義元の墓は一号碑のすぐ近くにあり、二号碑のすぐ近くには重臣であった松井宗信の墓があります。この豊明にある古戦場跡を歩いてみてみると、武将の戦士の場所などが具体的に記されてるだけでなく、古戦場独特の重々しい雰囲気がこの場所にはあります。だからこの地に立つと思わず、ここが桶狭間の戦いの最も激しかった場所のように感じられます。

歴史に「もしも・・・」と言う言葉を使い出したら切りがありませんが、もし桶狭間で今川義元が討たれてなかったら、織田信長が今川軍に敗れ歴史の表舞台に出てきてなかったら、この日本はどのような国になっていたのでしょうか。そう考えると歴史を感じるのは面白いものですね!桶狭間の古戦場、近くに来たら是非、立ち寄ってみて下さい。

今川義元の墓と戦死した場所を示す「七石表」

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釜ヶ谷の「信長坂」から今川義元本陣跡まで歩いてみると面白い!

釜ヶ谷の信長坂から名古屋市緑区にある「おけはざま山」までは歩いて7〜8分ほど、豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」までは歩いて15分ほどの場所になります。
現在は、この釜ヶ谷周辺は名古屋短期大学の敷地内の一部でキレイに整備されています。地元の方に話を聞くと数年前までは周辺には竹藪が残り、信長が駆け上がった風情もイメージが出来たそうです。残念ながら現在は竹藪は一部だけ残った状態となり、その風情は半減してしまいました。しかし実際に歩くことで、住宅街となった今でも小高い丘や谷間など感じ楽しむことが出来るので、桶狭間古戦場を探索する時は「釜ヶ谷」からスタートして2つの「今川義元本陣跡」に向けて歩いて探索するのがおススメです。

この釜ヶ谷の「信長坂」は大学の敷地内にあります。だから絶対に無断で敷地内に入ったりしないよう気を付けましょう。信長坂を近くで見たい場合は学校の受付に行き、事情を説明すれば、中に入れてくれると思います。ただ夕方や土日祝など学校がお休みの場合は許可をもらうことが出来ない事がありますのでご注意を!

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掲載内容は執筆時点のものです。 2014/02/23 訪問

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