大和富士・額井岳山麓(奈良県)の秘められた名勝地をさぐる旅

大和富士・額井岳山麓(奈良県)の秘められた名勝地をさぐる旅

更新日:2014/08/18 10:36

近鉄・榛原駅の北東部、奈良市と宇陀市の境に位置する額井岳(ぬかいだけ)は、その円錐形の秀麗な山容から大和富士と呼ばれてきました。この山すそ一帯は、神武東征の史跡がちりばめられ、県天然記念物の豊富なところ。この地域の秘められた名勝地と珍しい植物に出会う旅をご紹介します。

神武東征を援けた勢力が甘南備として仰いだ額井岳

神武東征を援けた勢力が甘南備として仰いだ額井岳
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大和富士・額井岳(821.6m)は、熊野から八咫烏に導かれ宇陀入りした神武天皇の「楯を並べて伊那佐の山の木々の間から敵を見張って戦ったので、私は飢え疲れてしまった。鵜飼部の仲間よ、たった今援けに来てくれ」という古謡に出てくる鵜飼部の末裔とされる額井が甘南備として仰いだ神体山です。
この山の取り付きには神武帝(かむやまといわれひこ)を祭神とする十八(そは)神社があり、村人が古事記・日本書紀に出てくる事件を今もって誇りにしていることが偲ばれます。
十八神社の十八の由来は不詳ながら、おそらく後世に建てられた神社ですので、天・地・人の三道に各6体の神を充当させる吉田神道の理法によるものと思われます。

この地は近年、天満台が分譲地として開発されたお蔭で、バスの便が1時間に3本あり、足弱の方でも辿りやすくなりました。

写真は戒長寺方面から双耳峰の額井岳(ぬかいだけ)を望んだものです。

近鉄榛原駅南バスターミナルより天満台東3丁目行きバスに乗り、天満台西4丁目下車。約20分で十八神社鳥居前に至ります。

額井岳山頂(821.6m)から戒場山(737.6m)へ

額井岳山頂(821.6m)から戒場山(737.6m)へ
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十八神社からは、ゆっくり歩いても1時間弱で額井岳の頂上に至ります。頂上には水神祠があり、干ばつの際には「岳のぼり」が行なわれ、龍王の前で火を焚き雨乞いがなされたと言われます。
山頂の四等三角点を踏み、南方向の伊那佐山から東吉野方面の展望をほしいままにして、堅牢で快適なあずまやで一休みし、往古よりのこの山へ寄せる里人の思いを追体験いたしましょう。
額井岳から戒場山(かいばやま)までの尾根筋は、杉林で覆われていますが、かっての植相に由来するきのこたちが豊富でテングタケやイグチ、そしてベニタケ類の豊富さには驚かされます。

写真は額井岳から戒場山へ向かう稜線に霧が湧き、さながら幽玄境に向かう心地さえする山路の一コマ。

戒場山頂上では珍しいきのこのクサイロハツに出会うことも

戒場山頂上では珍しいきのこのクサイロハツに出会うことも
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額井岳より戒場峠を経て更に東方向へ尾根道を辿ると戒場山頂上に至ります。杉木立の中の頂きは展望こそありませんが、だだっ広い広場を成していて明るく、休憩するにはもってこいの場所。
この山頂部では、運が良ければ、緑色の傘をもつめずらしいクサイロハツ(Russulla aeruginea)の群落に出会うことができます。かってこのあたり一帯がカバノキ属の樹種に覆われていたことがこのきのこから偲ばれます。
ここからは、陰気な沢筋をしばらく下ると戒長寺に至ります。

戒場薬師と親しまれてきた由緒ある戒長寺と戒場神社

戒場薬師と親しまれてきた由緒ある戒長寺と戒場神社
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真言宗御室派の戒長寺は、木造薬師如来と両脇侍仏、木造薬師如来座像(県重要文化財)ほか、藤原期の仏像が数多く安置されている由緒正しい寺院です。この山奥の地がとりわけ我が国の歴史にとって重要な意味を持ってきたことを改めて思い知らされます。
無造作に据えられている西応4(1291)年の銘のある梵鐘は、わが国唯一の十二神将を刻んだ国重要文化財。
そして梵鐘脇には、高さ30mは優にある葉の縁に小さな実をつけるお葉つき銀杏。本堂横の戒場神社の脇には樹高15m、幹まわり8.6m、樹齢800年とされるホウノキの巨樹(いずれも県指定天然記念物)が立ち尽くし、圧倒されます。
写真は、瑠璃光浄土を封印したかのように静まりかえる青葉隠れの戒長寺本堂。

天平の宮廷歌人・山部赤人の墓と思しき石塔

天平の宮廷歌人・山部赤人の墓と思しき石塔
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聖武天皇即位から数年間、柿本人麻呂と入れ替わりに歴史の舞台に登場するわが国初の叙景歌人・山部赤人(やまべのあかひと)の墓は、戒長寺から額井岳へと山裾を縫う東海自然歩道の中ほどにあります。
墓のかたわらに設けられたあずまやに座し、もの言わぬ石塔を眺めながら、宇陀の地と赤人の墓石の謎にしばし思いを巡らせてみるのも一興かと思われます。

おわりに

春の野に菫摘みにと来し我ぞ野をなつかしみ一夜寝にける 

万葉集巻8所収の僕の大好きな赤人の歌ですが、この歌に代表されるような都会風な詠み方は、古今集へと詠み継がれていきます。
山部とは山人集団でそれを掌握していたのが山部宿禰であり、赤人は山岳信仰につながる鎮魂詞章の管理をしていたとみれば、彼の長途の旅がそうした山人の風俗歌の採集にあったとも思われてきます。
そんな赤人の墓を訪ねることで、この地の先進性と辺境性を改めて思いめぐらせる旅となりました。
この赤人の墓ならずともこの地は、興味のつきない土地の記憶を湛えていて訪ねる度に新たな発見がありますので、是非お誘いあわせの上訪問してください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/08/10 訪問

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