写真:SHIZUKO
地図を見る日本三大銅山の1つの別子銅山は、地上1000メートル・地下1000メートルまで掘りつくされ閉山。銅山としての役目を終えた後は、放置されていましたが、1991年に産業遺産の里『マイントピア別子』として蘇りました。
マイントピア別子は『端出場(はでば)ゾーン』と、『東平(とうなる)ゾーン』に分かれています。
端出場(はでば)ゾーンは、最後の採鉱本部があった場所で、現在は鉱山観光施設と体験施設がある場所。
鉱山の最盛期に最も賑わった東平(とうなる)ゾーンへは、車でさらに25分ほど。細いくねくねとした山道を登っていくと、忽然とレンガ造りの堂々たる建物群に出会います。
標高750メートルに位置する、この山奥の東平(とうなる)の地には、学校や劇場、社宅が立ち並び、町として大変な賑わいを見せていたそうです。昭和初期には、この地に3800人もの関係者と家族が住んでいたというのですから、町には子どもたちの元気な声が溢れ、道沿いの劇場からは、賑やかな笑い声が聞こえていたことでしょう。
写真:SHIZUKO
地図を見る明治維新以前から、日本の経済を支え、住友財閥の基礎を築いたこの銅山。経営は住友家です。
住友家の経営方針は「山の上であっても都市部にいるのと同等の生活を保障する」。ということで、劇場では一流の人たちが公演をし、病院や学校も整備され、鉱山の人々の生活は守られていました。なので、ここで働いた人たちは誇りを持って、この鉱山を愛して生活していたそうです。
また、鉱山というと、男の職場というイメージですが、男だけの世界ではいけないと家族で移り住むことが基本とされました。女性のために、鉱石の選別や運搬などの仕事もあります。仕事場には女性の賑やかな話し声が響いていたのでしょうね。
重い鉱石は、採掘されると貯鉱庫に置かれて、下に見える広場に落とし、女性たちが選別し、索道(荷物を運ぶロープウェイようなもの)を使って、端出場まで運ばれました。急な坂をうまく利用して、効率よく仕事が進められていた様子がよくわかります。
写真:SHIZUKO
地図を見る銅山は、最初は海抜1000メートルの山の天辺から掘り進められたのですが、どんどん掘り進むうちに、地下1000メートルという深さまで到達しました。その深さには、びっくりします。
別子銅山の銅はとても純度が高く、良質。とはいえ銅は、銅鉱石を精錬しなければ銅にはならない。その過程で、鉱毒水が発生したり、煙害が生じたりします。
1880年代に起こった足尾銅山鉱毒事件は、周辺の農業・漁業に深刻な被害をもたらした、日本の公害被害の始まりとして有名です。
その点をふまえ、別子銅山では鉱毒には万全の対策を講じ、鉱毒水の公害が出ないよう、水路にはかなりの設備投資がなされました。斜面がおだやかな場所では木製の水路を、急斜面では煉瓦造りの水路を作り、土壌汚染を防いでいます。
しかし、精錬時の煙害によって、山の木々はほとんど枯れてしまったそうです。
現在は、閉山後に住友グループの社員が、1本1本植林し、山の木々は復活し、豊かな緑溢れる山に蘇っています。
写真:SHIZUKO
地図を見るインクラインやトンネルの跡、貯鉱庫跡や索道停車場、東平歴史資料館などで東平ゾーンの『東洋のマチュピチュ』を堪能したら、山を降りて端出場ゾーンへ。
本館2階の端出場駅から鉱山鉄道に乗って、坑道観光のスタートです。実際に使われていた鉱山鉄道は、山間を抜けていきます。
元ダイナマイト倉庫を利用して作られた観光坑道へGO!
『江戸ゾーン』では、当時の生活や採掘の様子。人々の苦労を実感。『近代ゾーン』では、繁栄していく銅山の様子に感心。『遊学パーク体験ゾーン』では、遊び感覚で坑内作業が体験できます。
『砂金採り』や『銅細工体験』などもあるので、1日楽しめます。『ヘルシーランド別子』という天然温泉施設が併設されているのは嬉しいですね。
煉瓦造りの建物は、今では寂しげな姿で建っていますが、華やかだったかつてを偲び、近代日本の礎を築いた人々に感謝する旅に出掛けてみませんか。
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(2023/12/6更新)
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