写真:木村 岳人
地図を見る段畑を楽しむには、何はともあれ登ってみないことには始まりません。下から上まで作業路が通されていますので、散策させていただきましょう。もちろん、作業されている方々の邪魔にならないよう、気を付けて。
山の上から望む段畑は、思わず溜息が漏れてしまう程のインパクト。等高線のように並ぶ幾筋もの石垣は、芸術作品のような美しさがあるのです。それは、まさしく「耕して天に至る」というもの。
石垣の白い色合いが、帯状の狭い耕作地に植えられたジャガイモの葉と相まって、素晴らしいコントラストを醸しています。
写真:木村 岳人
地図を見る上からの光景も良いですが、段畑は下から見上げてもまた違った雰囲気が味わえます。それは、そそり立つ石の壁。巨大城塞のようではありませんか。
江戸時代から明治時代にかけて、地元の人々の手によりコツコツと築かれてきたのですから、大変な努力と苦労がしのばれます。
かつてこのような段畑は、北は佐田岬から南は宿毛にかけて、宇和海の沿岸地域に広く存在していました。しかし現在、完全な形で残る段畑はこの水荷浦のものだけとなり、非常に貴重な存在だと言えるでしょう。
写真:木村 岳人
地図を見るなぜこのような景観が作り出されたかというと、ズバリ、漁師が自給自足で生きる為。
この一帯は険しい地形が連続するリアス式海岸で、平坦部がほとんど存在しません。しかも雨が少なく、土地も酸性と、農業にはまるっきり向いていないのです。
なので昔からこの地に住む人々は、漁業で生活を営んできました。江戸時代に入ると宇和島藩によりイワシ漁が推奨され、さらに漁業が盛んになっていきます。
漁師が移住してきて人口が増えると、問題になってくるのが食料の確保。農業に適した土地がないこの地の人々は、急斜面の山を半ば無理やり切り拓き、畑を作らざるを得なかったのです。
写真:木村 岳人
地図を見る江戸時代中期にはイワシの不漁が続き、食料を農作物に頼らなければならない状況になりました。人々は築いた段畑の上にさらに石を積み、段畑を拡張していきます。
江戸時代末期には再びイワシが捕れるようになりましたが、すると今度は人口が急増し、さらに段畑を築く必要が出てきました。そうして明治時代に入った頃には、山裾から山頂にかけて、山一面を覆う段畑の光景が作り出されたのです。
しかし段畑は生産性が低く、また重い作物を担いで急斜面を上り下りしなければならず、普通の畑とは比較にならない程の重労働。生きる為とはいえ、その苦労は想像を絶するものでした。
写真:木村 岳人
地図を見る現在はスプリンクラーや農業用モノレールが整備され、昔よりは苦労が軽減されたとはいえ、それでも普通の農業に比べれば圧倒的に大変なのものです。
耕作地の幅はわずか1メートルと狭く、農業機械を使うことはできません。作業はすべて人の手によって行われ、さらには石垣のメンテナンスなど、維持もまた大変です。石垣から転落しないよう、足元にも注意しなければなりません。
そのような多大な苦労をもって、水荷浦の段畑は支えられ、今に受け継がれてきたのです。
普通の文化財とは違い、段畑は農業という人々の生業の上に成り立つ有機的な文化財。その表情も、季節に応じて様々な変化を見せてくれます。
宇和島を訪れた際には、ぜひとも水荷浦まで足を伸ばしてみるのが良いでしょう。段畑を実際に歩き、そのスケールと歴史を実感してみてください。
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(2023/12/6更新)
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