写真:Naoyuki 金井
地図を見る調神社は、社伝によれば第十代崇神天皇の勅命により約二千年前に創建された神社といわれ、「租・庸・調」の一つである“調”という貢物を伊勢神宮に納めるための蔵があったことが社名の由来です。
公式な記録としては、平安時代の『延喜式』に武蔵国四十四座のうちの一社とされていて、ここでも千年以上の由緒と格式を誇っています。
この調神社で非常に興味深いのは、鳥居が無いことで、かつて蔵への調物搬入のため、参道口の鳥居が邪魔なことから取り壊して以来、現在に至るまで引き継がれているのです。まさに悠久の伝統です。
鳥居に代わって参拝客を迎えているのが、参道口に鎮座する狛犬ならぬ、全国でも珍しい2羽の「狛ウサギ」です。
鳥居も無ければ、狛犬も居らず、その代わりに「狛ウサギ」とは、実にユニークな神社なのです。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る由緒ある調神社ながら、それまで蔵に集められた“調”の輸送ルートが771年、東山道(現・中山道)から東海道に変更されると蔵の役割も終わり、それに伴い神社も鎌倉時代以降、徐々に荒廃に向かうようになります。
そして中世となった1337年、足利尊氏が荒廃した神社を復興するのですが、1590年、秀吉による小田原征伐で再び社殿を焼失します。
そして江戸時代に再建され、1733年に本殿として建立された社が、現在境内に「稲荷神社」として残されています。
一間社流造で規模は小さいですが、本格的な設計の基に建立されたものとして、現在、市指定文化財となっています。
特に注目すべきは「ウサギの彫刻」で、当時の月待信仰との関係のわかる大変貴重な文化財なのです。
※2014年8月30日現在、旧本殿の稲荷神社は修復中で、仮社殿でのお参りになります。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る月待信仰とは、室町時代から起った民間信仰で、月は新月・満月を繰り返しますが、一度消えても必ず復活し不滅であるとして不老不死を願うものです。
太陽を崇拝するのと同じように、十五夜、十九夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝む宗教行事で、特に普及したのが二十三夜に集まる二十三夜行事でした。
当時“調”の文字が「つき」と読めることから、ここ調神社は月待信仰の拠点となり、月宮(つきのみや)と呼ばれるようになったのです。
こうして調神社が月宮として月の神を祀る神社なると、今昔物語集などの月とウサギの伝説などから、月の神の使姫が「ウサギ」とばかりに、境内の各所にウサギが祀られるようになったのです。
そして「ウサギの手水」など現代まで脈々とその伝統が受け継がれているのです。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る月待信仰と相まった調神社は、徐々に隆盛を極めます。
徳川三代将軍家光からの朱印状授与に始まり、調神社は継続して安堵の朱印状が踏襲され、約12,000平方mの神域を誇り、欅、椋木、銀杏の大樹が鬱蒼と茂る鎮守の杜を持つ広大な神社となったのです。
こうして繁栄した調神社の社殿も、江戸時代末期の1859年に建て替えられ、総ケヤキの権現造りの大きく豪壮な風格を漂わす社殿に代わるのです。
明治になると、神仏分離により県社として定められ、それまでの本尊である月読本尊(現在の神像)から祭神も伊勢神宮と縁の深い天照皇大神に、豊宇気姫命、素戔鳴尊の三柱となり、月待信仰とともに変らぬ崇敬を受け、拝殿の現代的なウサギや彫刻、絵馬、御守りなどとともに、現在も「つきのみやさま」として地元では親しまれているのです。
写真:Naoyuki 金井
地図を見るウサギの神社として名高い調神社には、もう一つ注目すべき七不思議が残されています。
今まで見てきた「鳥居が無い」「ウサギが使姫」も七不思議で、そのほかに「片目の魚の池」「蓮上人駒つなぎの欅」「境内に松の木がない」「ハエがいない」「蚊がいない」という不思議があります。
かつて飛地境内にあった「ひさご池」に魚を放つと、必ず片目になったという言い伝えがあり、その伝承を受け継いだのが、現在の境内の奥にある神池「御手洗池」です。
ここにも現在は「ウサギの噴水」があり、運がよければカメの甲羅干しとともに、ウサギとカメのそろい踏みが見られることでしょう。
各所のウサギとともに、境内には「蓮上人駒つなぎの欅」がありますので、七不思議にも注目してみてください。
境内には、まだまだ多くのウサギが潜んでいます。
ご利益は、運否天賦の「ツキはツキを呼ぶ」という謂れから、是非、沢山のウサギを見つけて、その分の幸運を授かってください。
あなたは何羽のウサギが見つけられますか?
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(2024/12/2更新)
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