写真:乾口 達司
地図を見る玉丘古墳群は古墳時代中期(4世紀末から5世紀)に築かれた古墳群。『播磨国風土記』によると、後に顕宗天皇と仁賢天皇となる兄弟が都の政争を避けて播磨国に逃れていた折のこと、2人は播磨国賀毛の里(現在の加西市付近)に勢力を持つ国造許麻(くにのみやつここま)の娘・根日女(ねひめ)に恋心を抱きました。しかし、もともと仲の良かった2人は互いに譲り合い、結局、どちらも根日女と結婚することなく都に戻ります。後年、根日女の死を聞き知った2人は嘆き哀しみ、根日女を手厚く葬るように指示しました。顕宗・仁賢両天皇の指示で築かれたとされる根日女の墓は玉丘古墳群のなかでもっとも巨大な玉丘古墳であると伝えられています。根日女の哀話が史実そのままかどうかはわかりませんが、多くの古墳が残されていることからも、当時、この地に天皇家と深い関わりを持つ大きな政治勢力が存在したことは間違いないでしょう。
写真は古墳公園として整備された玉丘史跡公園の入口に立つ案内板。ご覧のように、園内にはさまざまな古墳が点在しています。しかも、その形状は前方後円墳や円墳などさまざま。現在、玉丘古墳のほかにも玉丘古墳の陪塚2基、笹塚古墳、マンジュウ古墳、逆古墳、北山古墳、壇頭山古墳、クワンス塚古墳、実盛塚古墳が国指定の史跡として登録・保存されています。
玉丘史跡公園は古墳公園として綺麗に整備されているので、お弁当を片手に園内をゆっくり見てまわるのもいいですね。
写真:乾口 達司
地図を見る玉丘古墳は周濠を持つ巨大な前方後円墳。築造時期は4世紀末と考えられており、全長は109メートル、兵庫県下では6番目の規模を誇ります。その最大の魅力は、誰でも自由に墳丘に立ち入ることができるということ。写真は後円部に位置する埋葬施設跡。ご覧のように、盗掘によって生じた窪みが見えますが、注目していただきたいのは、その窪みのなかに苔むした石材の残骸が残されていることです。これは埋葬施設に安置されていた凝灰岩製の長持形石棺の破片と考えられています。
写真:乾口 達司
地図を見る玉丘古墳の南方に位置するのは愛染古墳。直径約18メートルの円墳で加西市佐谷町字上天寺から移築・復元されたものです。愛染古墳の魅力は、移築・復元された古墳であるという特異性もさることながら、横穴式石室の内部が一般に公開されている点にあります。石室内には組み合わせ式の家型石棺も置かれていますが、石室内の様子を見学できるのは愛染古墳だけですので、ぜひ、見学しましょう。
写真:乾口 達司
地図を見る写真は、玉丘史跡公園の北方、県道24号線を挟んだ向かいの住宅地に残されている笹塚古墳。前方部の長さ約8メートル・幅15メートル、後円部の直径43メートル・高さ3メートルからなる古墳であることが判明しています。
いま、お伝えした数字をいま一度ご覧下さい。計測部分が前方部と後円部に分けられているため、その形状は玉丘古墳と同じ前方後円墳だろうと早合点してしまう人も多いかと思います。しかし、その数値を見ると、後円部に比べて、前方部が極端に短いことにお気づきになりませんか?上空から見ると帆立貝の形に似ていることから、このような形状の古墳は「帆立貝式古墳」と呼ばれています。玉丘古墳群にはこのような珍しい形状の古墳も含まれているのです。
写真:乾口 達司
地図を見るこちらはやはり玉丘史跡公園の敷地外に位置するマンジュウ塚古墳。写真をご覧いただくと、あれ?と思われる方も多いのではないでしょうか。そうなんです、このマンジュウ塚古墳、肝心の墳丘がほとんど残されていないのです。もちろん、はじめからこんな形であったわけではありません。後世、墳丘が掘り崩されたせいで現在のような状態になったのであり、発掘調査の結果、前方部の幅約26メートル、後円部の直径約39メートルからなる帆立貝式古墳であることが判明しています。
それにしても、ここまで大規模に破壊されていると、専門家でなければ、古墳とは見抜けないですよね。しかし、全国の古墳の多くがこのように破壊され、ひどいものになると跡形もなく消滅してしまっていることを踏まえると、環境破壊の一例としても、ぜひ、見学しておきたい古墳ですね。
玉丘古墳群がいかにバラエティに富んだ古墳群であるかが、おわかりになったのではないでしょうか。他にも円墳なのか、前方後円墳なのか、諸説がある玉丘古墳陪塚第1号墳やさまざまな副葬品が出土したクワンス塚古墳など、今回、ご紹介できなかったものはまだまだ存在します。当地を訪れ、古代播磨の国の姿に思いを馳せてみてください。
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(2024/10/11更新)
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