名物「切腹最中」も驚愕!忠臣蔵に纏わる所縁の地、港区巡礼

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名物「切腹最中」も驚愕!忠臣蔵に纏わる所縁の地、港区巡礼

名物「切腹最中」も驚愕!忠臣蔵に纏わる所縁の地、港区巡礼

更新日:2014/10/16 15:31

Naoyuki 金井のプロフィール写真 Naoyuki 金井 武蔵国ナビゲーター、歴史探索ブロガー

毎年、歳の暮れともなると話題になるのが、赤穂義士の討ち入りとして名高い「忠臣蔵」です。
その発端は、江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだことで、これにより浅野内匠頭は切腹となり、ここから歴史に残る「元禄赤穂事件」がはじまるのです。
今回は、その浅野内匠頭の切腹にまつわるストーリーを、東京港区にある所縁の地を辿りながらご紹介いたします。

新橋四丁目に立つ「浅野内匠頭終焉之地」碑

新橋四丁目に立つ「浅野内匠頭終焉之地」碑

写真:Naoyuki 金井

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元禄14年3月14日午前11時40分頃、江戸城松の廊下で吉良上野介に切りかかった浅野内匠頭は、殿中にて取り押さえられました。
その理由については、様々な推測・憶測が飛交っていますが、いずれにしても午後1時50分頃、浅野内匠頭は、芝愛宕下にあった陸奥一関藩主・田村建顕の屋敷にお預けと決まりました。
午後3時50分頃には、すぐさま田村邸への移送が始められますが、この僅か2時間の間に、五代将軍綱吉は内匠頭の即日切腹と赤穂浅野家五万石の取り潰しを即決したのです。

午後4時30分頃、田村邸についた浅野内匠頭は、着替えをし食事を済ませ座敷牢に囚われます。そして午後6時10分頃には、幕府の正検使役から即刻切腹の儀を宣告されるのです。
宣告が終ると直ちに障子が開けられて庭先の切腹場へと移動し、磯田武大夫の介錯で切腹して果てたのです。享年35才でした。

この切腹の碑が、新橋4丁目に建立されています。
辞世を刻んだ石碑で、喧嘩両成敗を無視し即日切腹という違例の決定が、後の討ち入りに繋がる、まさに元禄の稀代なる事件の始まりの場所なのです。

田村邸跡地は老舗和菓子店「新正堂」

田村邸跡地は老舗和菓子店「新正堂」

写真:Naoyuki 金井

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浅野内匠頭が切腹した田村邸が実際にあった場所は、先の碑から東方向に100mほど進んだ辺りで、現在は田村邸の名残は何一つありませんが、その跡地に建つのが、一際赤い和傘が目を引く老舗和菓子店「新正堂」です。新橋の地で、大正元(1912)年に創業されたことから“新正”堂と名づけられました。

当初は、ごく普通の和菓子店でしたが、田村邸跡地の内匠頭切腹ゆかりの地ということから、忠臣蔵に関連した商品を作ろうと考えたのが現在の三代目社長です。
考案されたのが「切腹最中」で、思いつきは大変良かったのですが、何故「切腹」などという縁起でもない名称を付けるのか、と周囲は大反対でしたが、1990年に意を決して販売に踏み切ったのです。

販売を始めてまず話題になったのが新橋のビジネスマンで、お詫びに行くときに「切腹」する覚悟という洒落が受けたのです。その話題が拡散し、数々のメディアでも取り上げられ人気は瞬く間に上昇、現在は新橋を代表する土産品の1つとして知られるまでになったのです。

内匠頭切腹がモチーフの「切腹最中」

内匠頭切腹がモチーフの「切腹最中」

写真:Naoyuki 金井

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その新正堂渾身の和菓子が、こちらの「切腹最中(もなか)」ですが、そのまま読むと「切腹(の)さいちゅう」とも読むこともできる、ユニークすぎるネーミングです。
更にネーミングもユニークですが、形状もまたユニークなんです。
あえて最中の皮を開き、餡をはみ出すように詰めているのは、よくよく考えれば、実におどろおどろしい構図で、あえてキッチュに作り出されています。そして白い帯を鉢巻に見立てた、まさに浅野内匠頭切腹のその時をデフォルメした形なのです。

しかし、ユニークなだけの最中ではありません。
たっぷりの餡は、結晶の大きな純度の高い砂糖を使用しコクがあり、中に包んだ餅(求肥)が甘さを抑えながら、もっちりとした皮の食感が美味しさを引き立てている逸品なのです。

この新正堂には、このほかにも忠臣蔵にちなんだ、「義士ようかん」「陣太鼓どらやき」や、「切腹最中」とセットした縁起の良い小判型の最中「景気上昇最中」の“営業セット”など、出張ビジネスマンのお土産に大人気なのです。

赤穂浅野家菩提寺は「泉岳寺」

赤穂浅野家菩提寺は「泉岳寺」

写真:Naoyuki 金井

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武士としての最低限の名誉だけは保たれた切腹が終わり、浅野内匠頭の遺体は、田村家から知らせを受けた浅野家家臣が引き取りました。
本来であれば、赤穂浅野藩主菩提寺である兵庫県の花岳寺に葬られるのが筋ですが、実際には江戸高輪の泉岳寺に埋葬されたのです。

何故、本来の菩提寺ではなく泉岳寺となったのでしょう。
これは、三代将軍家光の時代における泉岳寺移転の際、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名が尽力したことが、泉岳寺と浅野家との縁となったからなのです。
本家としては時間的、背景的に埋葬できなかったのではないかと推測しますが、これ以降、浅野家の菩提寺は泉岳寺となり、現在、泉岳寺には浅野内匠頭、正室、及び内匠頭以降の浅野家当主が眠っています。

そして泉岳寺には浅野内匠頭が田村邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられる「血染めの梅、血染めの石」が残されていますので、併せてお参りしてはいかがでしょうか。

赤坂氷川神社に名残の「大いちょう」

赤坂氷川神社に名残の「大いちょう」

写真:Naoyuki 金井

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浅野内匠頭の埋葬が終わると、この後は浅野家と赤穂藩の取り潰しに掛ります。
切腹翌日の3月15日には、弟をはじめ一族を閉門・遠慮処分とし、16日には赤穂藩上屋敷を没収します。
没収され追い出された人たちの中には、内匠頭の夫人「阿久里」がおり、赤坂にある実家の三次浅野家・浅野土佐守邸に引き取られ、落飾して「瑤泉院」となり夫の菩提を弔うことになったのです。

この三次浅野家土佐守邸が、現在の「赤坂氷川神社」です。
赤坂氷川神社は、赤穂義士討入りの約30年後にこの地に遷宮されたのですが、現在見られる、その名残は境内にある樹齢400年を誇る天然記念物の「大イチョウ」だけで、港区で2番目の樹齢と大きさを誇る大イチョウは、何も言わずとも元禄赤穂事件をじっと見続けてきた貴重なイチョウと言えるのです。

また、神社の前には大石内蔵助が、討ち入り前に瑤泉院を訪れて別れを告げたといわれる「南部坂」もあり、まさに「赤坂氷川神社」は、忠臣蔵「討入り」へのドラマチックな地なのです。

始まりの終わりに。。。

忠臣蔵と赤穂義士四十七士は、打ち入り後、約50年経って上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の興行が人気になるに伴って多くの参詣者が訪れるようになりました。現在でも多くの方が12月14日の討入の日には泉岳寺をお参りするとともに、3月14日の内匠頭切腹の日にも、同じく泉岳寺の墓前を参拝される方も多いようです。

泉岳寺お参りの際は、是非、浅野内匠頭終焉の地にも足を運んでいただき、内匠頭モチーフの和菓子を食べながら、忠臣蔵ゆかりの地で、ひと時を過ごしてみてはいかがですか。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2014/05/24−2014/09/20 訪問

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