JR高田駅を見てみよう。東に向いた駅舎は、高田城をかたどっている。
徳川家康の六男・松平忠輝が、高田へ入ったのは慶長3年、1614年のことだ。佐渡を除く越後一国と長野県北部である北信四郡を治める。入城にあたって高田城は、忠輝の義父、つまり妻となった五郎八姫の父、伊達政宗が総指揮をとる天下普請で13大名がかかわったのだという。わずか4ヶ月で築かれた。天守閣は置かず、石垣もない土塁と堀に囲まれた平城。有名な「高田公園の夜桜」でライトアップされる三重櫓は、その平城のなかで越後最大の雄藩のシンボルとしてあり、平成に復元されたものだ。
駅は、その三重櫓をモチーフにしている。
駅には、もう一つ、高田という町を有名にしている「雁木の町」もあらわしている。
駅舎の両翼が「雁木」の構造を模している。
高田は、なにしおう豪雪の町。1945年2月には最深積雪377cmを記録するなど、国の「特別豪雪地帯」に指定されている。「雁木」は家の前にはりだしてもうけた「ひさし」の呼び名で、雪のくらすひとびとの生活道路を確保する。現存する雁木の総延長は16kmにもおよぶといい、その長さは日本一だ。
そんな雁木の構造も一様ではないらしい。ただ「ひさし」を出す形だけでなく、「雁木」が「町家」の2階部分に組み込まれているものもある。昔ながらに修景された黒い格子が残る「旧今井染物屋」の雁木などが、それだ。「麻糸商・呉服商」や「味噌・醤油商」など、このような「町家」が点々と残されている。
「町家」は道路に面した間口は狭いものの、奥行は深い。外側の景観だけでなく、そんな「町家」の構造も、内部に入って見学できるスポットがあちこちにある。
そこまでは案内書にも紹介がある。町歩きの魅力は、未知の不思議だ。
たとえば、新しい2階建ての家々の屋根に非常用のはしごのようなものがしつらえられている風景だ。恐らくは雪下ろしにかかわりがあるのだろうが、その時には、屋根から下へおろしてつかうのだろうか。通りがかりの婦人に尋ねた。
「家を建てる初めから、作りつけではしごを載せているんです。雪が降りはじめてからでは、はしごを立てることはできません。1階の屋根にのぼってから2階の屋根へのぼるわけです。地上から、なんていう生易しい雪じゃないですからね」。
「なるほど」、なのである。
目の前を通っても、見落としてしまいそうなのが、明治に芝居小屋として造られて以来、いまに映画館として残る、現役では最古級の木造「高田世界館」である。
1911年(明治44年)に劇場「高田館」として誕生した。日露戦争末期に創設された陸軍第13師団の司令部が高田にやってきたのが3年前の1908年(明治41年)。軍人さんが求めた娯楽の場ともなったのだろう。当時の記録によると、「白亜の洋館現る」といった華々しいデビューであったという。「洋館」といっても、本格的な洋館建築の技師がいたわけでもない、いわば木造の擬洋館。つまり大工さんが洋館を真似てつくりあげた洋館である。
初め芝居小屋は、町のお医者さんが片手間で始めたらしい。が、1916年(大正5年)から映画常設館となり、日活世界座、高田東宝劇画劇場、松竹館、高田劇場、テアトル高田、高田日活と、小屋の名前は変えながらも、今日に続いてきた。
現在は、「建物の歴史的価値をなんとか後世につなげたい、レトロな建物で映画を観たい」との思いで立ち上がった「街なか映画館再生委員会」というNPO団体が、管理と映画の上映をになっている。
2階建て木造の小屋の天井の木組みをはじめ、小屋貸しのために張り出しをつくったステージ部分、木造の階段をモルタルで覆っていた部分がハゲたところなど、本当にレトロ。極めつけは、昔ながらのアナログのフィルムをキネマの映写機で映し出している映写室だ。
「経営を任された支配人が亡くなったあと、未亡人が劇場に積極的な投資をして新鋭設備を導入しなかったことが、百年の時をいまに残すことになったのですね」と案内をしてくれたNPOの方。
映画の上映プログラムがあるので、上映中は劇場の内部の様子などを見ることはできないが、それ以外の時間なら、中を見せてもらえる。
さて、陸軍第13師団にもどる。師団司令部は高田城の中に置かれた。第3代の師団長で、「プロペラ髭」で知られ建築道楽でもあったといわれる長岡外史中将が、司令部内に建てさせた師団長官舎が、「旧師団長官舎」として町のシンボルになっている。
第13師団から歩兵第15旅団司令部をへて、GHQ接収から陸上自衛隊駐屯地の宿舎へと一貫して軍人に愛された建築物であったが、老朽化したため解体され、平成になって城の西南、かつて市長公舎があった現在地に移築・復元された。
明治末期の洋風木造建築の2階建てながら、1階には12人が会食できる食堂やサンルーム、2階には和室もしつらえてある。内装のこり方も見ものだ。入口には長岡師団長の胸像も置かれている。
この長岡師団長時代に、オーストラリア・ハンガリー帝国の軍人、レルヒ少佐が高田にやってきた。一本杖のアルペン・スキーを、この地で初めて師団の兵に指導をした。
これが高田の名を「日本のスキー発祥の地」として全国に広めることとなった。その功績を顕彰するレルヒのスキー姿の銅像が、市街を見下ろし、スキーを初めて指導した金谷山に建てられ、日本スキー発祥記念館も歴史を伝えている。
高田は、「日本のアンデルセン」「日本児童文学の父」といわれる童話作家、小川未明(1882年─1961年)が生まれ育った土地でもある。
生誕の地にプレートが、また高田公園内の高田図書館には「小川未明文学館」がある。
駅から高田城の三重櫓へと歩いたところにある大手町小学校の入口には石碑が据えられ、碑面には兵隊が銃をかかえて地上にすわり眠り込んでいるような姿が浮き彫りになっている。反対側には列を組んで銃をかついだ兵士たちの姿…。「野ばら」という標題と、小説らしきものの一部が記されている。
石碑についての説明版らしきものもない。小学校に尋ねてみた。初めに応接してくれた先生は「さあ。古くからいる先生に聞いてみます」。
「古くからいる先生」は、「小川未明の『野ばら』の一節を碑にしたものです。平成の初めに建ったと聞いていますが、詳しいことはわかりません」。
『野ばら』は、「大きな国と、それよりはすこし小さな国」の辺境にある国境の石碑を守るためお互いに派遣された老兵士と青年兵士と、戦争と平和の話で、教科書にも載ったことがあるらしい。
生誕地のプレートを見に行くよりは、未明の作品を考えさせてくれる石碑である。
このほか、高田にゆかりのある画家、小林古径の記念館、美術館、さらに解体して移築された古径が住んだ数寄屋造りの家が、いずれも高田公園の中にある
長野からの北陸新幹線が2015年春に延伸、高田のある上越市内に新たに「妙高・上越」駅が開業する。首都圏や関西圏からのアクセスも高まる、と上越市も観光に力こぶが入る。
高田の町歩きには、駅の西側の寺町もある。さらに謙信公ゆかりの春日山城をも前面にだしてのキャンペーンが続いている。アシがよくなることで、町の歴史や風土への興味・関心が広がるかもしれない。
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(2024/9/18更新)
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