あの六本木ヒルズも赤穂義士切腹の地!?忠臣蔵・港区散策

あの六本木ヒルズも赤穂義士切腹の地!?忠臣蔵・港区散策

更新日:2014/11/19 15:36

Naoyuki 金井のプロフィール写真 Naoyuki 金井 神社・グルメナビゲーター
「細川の水の流れは清けれど、ただ大海の沖ぞ濁れる」という狂歌をご存知でしょうか。あの忠臣蔵で、討入り後の四十七士が四つの屋敷に分かれて預けられた様を庶民が詠ったものです。
細川=細川越中守、水の=水野監物、大海=毛利甲斐守、沖=松平隠岐守の四家を意味しており、細川・水野は「清い」、毛利・松平は「濁れる」とあります。
この狂歌は一体どのような意味なのか、赤穂義士最後の地を訪ねてみることにします。

都営高輪アパートの一画にある細川越中守邸跡

都営高輪アパートの一画にある細川越中守邸跡

写真:Naoyuki 金井

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細川綱利は、第3代肥後熊本藩主の熊本藩細川家4代目で、直系の子孫である肥後細川家第18代当主が元首相の細川護熙といえば、身近に感じられるでしょう。

この細川家には、大石良雄を始めとした赤穂義士17人の預かりが命じられました。
綱利は義士達に感銘していたことから、到着後から大石良雄との対面においては労いの言葉をかけ、義士達へご馳走を振る舞い、逆に大石から贅沢すぎるとの嘆願をされるほど義士たちを厚遇したのです。
このことから庶民は、細川の取った態度が素晴らしいと賞賛されたのです。

そして大石以下17名が切腹したのが、現在、港区高輪にある都営高輪アパートの一画の「大石良雄外十六人忠烈の跡」です。
切腹は、元禄16年2月4日午後4時に始まり、午後6時頃に終ったことから、概ね一人5、6分だったようです。

この切腹した庭は、細川家の守り神として終世残すことを決め、現在は港区と泉岳寺と中央義士会が共同で管理しており、残された庭石が、静かにその歴史を物語っているのです。

慶応中通り商店街の片隅に凛とした水野監物邸跡

慶応中通り商店街の片隅に凛とした水野監物邸跡

写真:Naoyuki 金井

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水野忠之は、三河岡崎藩第4代藩主の江戸時代中期の譜代大名として、享保の改革を支えた老中で、後の天保の改革を主導した水野忠邦は子孫です。

水野家に預けられたのは、間光興・奥田行高などの赤穂義士9名でした。
当初は身分が軽いことから長屋に収監したのですが、後に大石良雄を預かった細川綱利に倣って三田の中屋敷に移し義士たちを厚遇したのです。しかしながら若干の戸惑いはあったようで、綱利がすぐ大石良雄等と面会したのに対して、一週間ほど遅れて面会したのは幕府を憚ったからと言われています。
いずれにしても表向きしかわからない庶民からは賞賛されたのは言うまでもありません。

現在、水野邸は無く、港区芝の慶應仲通り商店街の一角に、当時の燈籠と案内板が残されています。
9人の切腹は、午後4時にはじまり、約1時間で終わりました。

商店街で居酒屋などの多いエリアですが、ここだけが異彩を放っているかのような厳粛な空気感が漂っています。

お洒落な六本木ヒルズの地が毛利甲斐守邸跡

お洒落な六本木ヒルズの地が毛利甲斐守邸跡

写真:Naoyuki 金井

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毛利綱元は、長門国長府藩の第3代藩主で、遡れば、あの戦国大名、毛利元就の「三本の矢」の三兄弟の下の四男・穂井田元清を祖とする由緒ある藩の藩主です。

ここ毛利家では、岡島常樹、吉田兼貞を初めとした赤穂義士10名の預かりを命じられました。
毛利家は、赤穂義士たちを完全に通常の罪人として扱い、窓や戸には板を打ちつけ座敷牢として閉じ込めたのです。
しかしながら、江戸庶民から批判されると待遇も改め、藩主との謁見の際には武士の正式な食事である二汁五菜を与え、菓子、酒、火鉢なども供したのですが、時すでに遅く、後世まで「濁る」の汚名となってしまったのです。

この毛利家の屋敷跡が現在の六本木ヒルズです。
六本木ヒルズにはテレビ朝日があり、報道ステーションなどのお天気コーナーでお馴染みの公園が「毛利庭園」で屋敷跡だったことから命名されました。
切腹は、午後3時過ぎに始まり午後4時過ぎには終わりました。

赤穂義士切腹の地が、日本を代表するお洒落な街になるとは、流石に義士たちも想像もしなかったことでしょう。

日本ではないイタリア大使館が松平隠岐守邸跡

日本ではないイタリア大使館が松平隠岐守邸跡

写真:Naoyuki 金井

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松平定直は、久松松平家宗家5代目で伊予松山藩4代藩主です。この子孫が元NHK看板アナウンサー松平定知であるのは、意外と知られていません。

江戸松山藩邸では、大石主税、堀部安兵衛など赤穂義士10名を与りました。
このころ藩主の定直は病床にあったため、全て家臣を通じて命令を受けました。本来は仇討ちを賞賛していたのですが、こちらも幕府を憚って歓迎は出来ないが、不自由はさせない、と伝えています。
しかし庶民には、細川・水野と比べると冷遇に見えたことから「濁し」と映ったのでしょう。

伊予松山藩の中屋敷だった切腹の地は、「大石主税良金ら十士切腹の地」として港区三田で史跡となっていますが、現在、イタリア大使館となっていて入ることはできません。
切腹は、午後5時に始まり午後6時頃に終わりました。

昭和14年に当時の駐日イタリア大使によって大使館敷地内にその碑が建立され、毎年義士命日には駐日イタリア大使が供養をおこなっています。
堀部安兵衛も外国人に供養されようとは、夢にも思わなかったでしょうね。

泉岳寺での赤穂義士四十七士埋葬の謎

泉岳寺での赤穂義士四十七士埋葬の謎

写真:Naoyuki 金井

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各大名家での切腹が終了後、義士たちは主君・浅野長矩と同じ泉岳寺に埋葬されるのですが、その際、泉岳寺では細川家17名、水野家9名、毛利家10名、松平家10名ごとに預けられた順列で墓石が立てられているのも興味深いところです。

ここで謎なのが、赤穂義士四十七士のはずが、17+9+10+10=46で、切腹・埋葬されたのが46人しかいないことで、これは討入後、唯一の足軽であった寺坂吉右衛門信行が忽然と消えたからなのです。

寺坂の墓石は地図では右下に位置しています。
これについては、「逃亡説」「足軽の身分を隠す説」「密命説」などが挙げられていますが、いずれにしても大石などが無関係を主張したことから、追っ手もなく放免になったのです。
これにより赤穂義士46人説、47人説が議論されたのですが、結局は四十七士として、寺坂の死後、慶応年間に泉岳寺に供養墓として47番目の墓石が建てられたのです。

これにて一件落着と思いきや、ここ泉岳寺の墓所には義士の墓石は48あり、更なる謎があるのですが、これは泉岳寺をお参りすれば理由はお判りになるので、謎のまま残しておきましょう。

最後に。。。

赤穂義士四十七士の最後の晩餐の地はいかがでしたか。

仇討後、助命か断罪かの議論の中で、最終的には柳沢吉保の提議により断罪と決まったのですが、打ち首ではなく武士の名誉が保たれた切腹となり、四十七士の心は晴れやかだったといわれています。
しかしながら、実際には切腹の真似だけで斬頭されたそうで、幕府・大名としてはあくまで早く終わらせようとの意図が見え隠れしていた忠臣蔵だったのです。

吉良邸、泉岳寺などの忠臣蔵でのメジャーな場所は観光も多いですが、高輪の歴史ある寺社町、慶應義塾大学を中心とした学生街、日本を代表するお洒落スポット六本木、そして泉岳寺と見どころも多いエリアですので、のんびり散策と参拝が楽しめることでしょう。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/10/04 訪問

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