大阪府八尾市〜蘇我・物部戦争の古戦場を歩く〜

大阪府八尾市〜蘇我・物部戦争の古戦場を歩く〜

更新日:2014/10/24 11:02

仏教導入の是非で激しく対立した蘇我氏・聖徳太子vs物部守屋の戦いは、その後の日本の宗教史を塗り替えるほどの壮絶な戦いでした。
今大阪府八尾市で、今は繁華街となってその片鱗すらとどめない古戦場を探る旅に出ましょう。

JR八尾駅界隈の渋川、跡部は、物部氏の一大本拠地

JR八尾駅界隈の渋川、跡部は、物部氏の一大本拠地
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JR八尾駅から西へ歩いて10分あまり、旧奈良街道沿いの跡部には跡部神社があり、このあたりが古代物部氏の居住地で、物部守屋の阿都(あと)の別業(べつごう)があったところとされています。

この地に舞い戻り、陣を組んだ物部守屋を蘇我・聖徳太子・秦河勝の連合軍が攻め込んで苦戦の末、守屋を射殺したとされています。
亀井・跡部にあるこの神社は、物部氏の一族阿刀氏の祖神・饒速日命(にぎはやひのみこと)をまつっており、延喜式内社です。

近くには渋川天神社があり、阿斗の桑市の館や阿斗の河辺の館などの名が書紀にあるとおり、物部氏の本拠地でした。

聖徳太子を祭る太子堂がある大聖勝軍寺

聖徳太子を祭る太子堂がある大聖勝軍寺
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用明天皇崩御の後の西暦587年、蘇我馬子は渋川の別業で戦さの準備をはじめた物部守屋を攻め、この時まだ14歳の聖徳太子とそのパトロン的存在であった秦河勝も戦さに加わったとされます。
その古戦場跡にこの寺が建てられたと言われ、本堂の太子堂は聖徳太子をまつる寺院だとされています。

勝軍寺に伝わる太子自らが刻んだと言われる四天王像

勝軍寺に伝わる太子自らが刻んだと言われる四天王像
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聖徳太子が守屋を攻めた折りに、戦勝を祈って白膠木(ぬるで)の木に自ら刻された四天王像が残されています。
寺門の脇にそのレプリカが建立され、この四天王像は別名四大臣像とも言われ、毘沙門天(多聞天)は秦河勝、広目天は迹見赤檮、増長天は小野妹子、そして持国天は蘇我馬子に擬せられたものと伝えられています。

この四天王像は形式としては我が国最古のものとされ、太子ゆかりの寺である奈良の法隆寺、大阪の四天王寺のそれを祖形として造立されたものと言われますが、実際には材質は桧の一木造りで、往時は彩色が施されていたらしく、時代も後世のものとされています。

また境内には太子が守屋と戦い非常に苦戦を強いられ、命が危うくなった折に、寄りかかった椋の木の幹が割れ開いて太子はその身をかくまわれ危難を逃れ、やがて守屋を打ち滅ぼすことができたとされるむくの木(神妙椋)が現存します。

いささか悪乗りが過ぎるとは思いますが、その木の下の馬蹄石は、太子がそこで馬に乗られると、そこのところがくぼんで蹄の形がくっきりと残ったものだとされます。

守屋の首をとってその血を洗ったとされる守屋池

守屋の首をとってその血を洗ったとされる守屋池
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勝軍寺の門前には、守屋池の石碑が建てられている小さな池があります。
聖徳太子が迹見赤檮(とみのいちい)に鏑矢を以って、守屋を射させたところ、その矢は見事に胸に当たり、樹上からドウと落ちたところを秦河勝がその首をとって、この池で洗い太子に示したことから、俗に守屋首洗い池と呼ばれています。
非業の死に加えて、あらぬ史実をねつ造され、国賊とされてしまった守屋が号泣するため、時おり池は涸れると言われてもいます。

またその池の太子堂歩道橋の南側には、守屋を射ぬいた鏑矢(かぶらや)が落ちたところにその矢を埋めたとされる鏑矢塚もあります。

明治になって建てられた物部守屋墳

明治になって建てられた物部守屋墳
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市立病院の前方、旧奈良街道(国道25号線)に面して、物部守屋大連墳(もののべのもりやおおむらじのはか)と刻された石碑の建つ玉垣に囲まれた墓所があります。

これは、明治のはじめに堺県知事の小河一敏(おごうかずとし)が建てたもので、石灯籠一基を献じて、正面に石の鳥居を設けた立派なもので、柱には「従五位下堺県知事藤原朝臣一敏」と彫られています。

昭和12年、守屋1350年祭に際し、阪正臣ら有志によって、「何背国神敬他神也(なんぞ、国の神に背き他の神を敬うや)」と日本書紀にある守屋の言葉を刻み、石灯籠を更に一基献じました。

ここの玉垣にはこの墓所建立に寄附を寄せられた全国津々浦々の物部に連なる人々や企業、神社の名が刻まれていて、それをつぶさに見ていくと、物部氏とは、とても大きな勢力であったことがおのずと理解されます。

おわりに

JR八尾駅周辺は、物部大連守屋の広大な所領のあったところですが、この宗教戦争の後、その所領と家来は召し上げられ、四天王寺をはじめ聖徳太子や蘇我氏関連の諸寺院にされました。

しかし、この戦争は神祇と仏教の対立ではなく、守屋と馬子の対立は、朝鮮半島の国々の対立をそのままわが国に引き寄せた外交上の問題に起因するのではないかという意見が近年濃厚になってきています。

物部氏滅亡ののち、時を経ずして聖徳太子が滅ぼされ、ついで蘇我氏の本宗家も根絶されています。彼らも物部守屋と同様に、敗者につながる王族や氏族であることから、旧豪族を代表する物部氏や蘇我氏が新しい国家の担い手によって抹殺されたとみてほぼ間違いないように思われます。

そして生駒を隔てて法隆寺から真東の大坂側に位置する南河内という地域は、いつの日か日本史が大きく書き換えられる際の重要な鍵を握っていると感じています。この地はもっともっと多くの人達が足繁く訪れて、それぞれが日本史の空白を埋める発見をしてほしいところです。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2012/05/26 訪問

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