じわじわくる京都「養源院」〜数奇な運命をたどった数々の魂がそこに…〜

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じわじわくる京都「養源院」〜数奇な運命をたどった数々の魂がそこに…〜

じわじわくる京都「養源院」〜数奇な運命をたどった数々の魂がそこに…〜

更新日:2014/11/10 16:22

豊臣秀吉の命により自害を命じられた、北近江の戦国武将・浅井長政。その供養のために、長政の長女だった淀殿の建てた供養寺が京都にある「養源院」です。

ところがこの養源院。浅井家ゆかりの寺というだけではありません!血染めの天井、今にも飛び出してきそうな幻想的な絵画、美しい音色を奏でる廊下…。こんな見どころ満載のお寺でもあるんです。まずは一緒にその見どころを、探っていきましょう!

知らなければ始まらない!?時代に翻弄された浅井三姉妹。

知らなければ始まらない!?時代に翻弄された浅井三姉妹。
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時代に翻弄された浅井三姉妹(淀・お初・お江)と言えば、NHKの大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の主人公として三女の「江姫」が、記憶に新しいところ。

養源院とは、淀殿が1594年、父・浅井長政の供養のため21回忌に建てたお寺です(養源院とは長政の院号)。淀殿と言えば、浅井三姉妹の長女。浅井三姉妹とは、浅井長政と、戦国一の美女と謳われた織田信長の妹・お市の間に生まれた子供たちのこと。また淀殿は、秀吉の側室としても有名です。

お江は秀吉の政略結婚に利用され、徳川家へと嫁ぎました。その後1615年、大阪の陣で淀殿(豊臣方)VSお江(徳川方)と敵対同士になった両姉妹。ここで淀殿は戦に負け、豊臣秀頼と共に自害したのです。淀殿享年47歳。

姉の淀を失ったお江は翌年の1616年、養源院にて戦没者の供養を営みました。養源院はその後1619年に落雷による火事で焼失し、1621年にお江が再興。その際、伏見城の遺構の一部を移築してきたことが、養源院の目玉ともなり次の項に出てくる「血天井」なのです。

お江はいくつかの変遷をへて、豊臣秀頼に嫁ぐ千姫をはじめ二男五女をもうけます。その中、五女として生まれた和子が、次期天皇を生むことになり、お江は大きな影響力を持つことに。その後1626年、江戸城西の丸にて死去。お江享年54歳でした。

浅井三姉妹の中では最長命となるお初は、夫の京極高次を亡くして以降出家。その後姉と妹が敵同士となった際、両家の和解に奔走します。常高院と名乗り、晩年は京極家の江戸屋敷で静かに息を引き取りました。享年64歳。

乱世に翻弄されながらも、生き抜いてきた三姉妹。彼女たちがどんな思いで、養源院を守ってきたのか、ここへくれば垣間見られるはずです(お江の肖像画もここでしか飾られていないそうですが、特別拝観中のみ拝観可能)。戦国時代を語る上で、欠かせない存在だと言えるでしょう。歴史を掘り下げてみる出発点としても、養源院と浅井三姉妹は、いいきっかけになるのではないでしょうか?

上を見上げてください!魂を弔うため、そこには黒々とした血の板が…。

上を見上げてください!魂を弔うため、そこには黒々とした血の板が…。
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養源院は一度消失し、お江が再興させます。その際、落城した伏見城を建材に使用しました。伏見城「中の御殿」から移築されたものが、養源院の本堂。そこで、上を見上げてください!黒々とした不気味な模様が、見て取れるはず。これがかの有名な養源院の「血天井」です。実は、伏見城落城の際、自刃した武将たちの血のりと脂の浸みた板。これが天井に使用されたのでした。

もちろん、何でもいいから天井に使おうと、むやみに血のりのついた板を使用したわけではありません。そこには忠義を誓った美しくも悲しい話があるのです。

1600年、石田三成と激しく争っていた徳川家康は、会津の上杉討伐に向かうため、伏見城を鳥居元忠に守らせました。留守の伏見城を守らせるというのは、石田三成をおびき寄せる作戦でもあったのです。大阪にいる三成が、家康の伏見城留守を聞けば、まず襲ってくるに違いありません。最小のリスクで三成側の足を止め、なおかつ 敵兵を少しでも減らしたい。この捨て駒役として、元忠は抜擢されたのです。

この鳥居元忠という人。家康が幼少期、今川家へ人質に出されていた頃からの側近で、言わば幼なじみのようなものでした。元忠は最後まで家康のために忠義を果たそうとし、快くこの申しつけを承諾。この日は、家康と朝まで想い出を語り合ったと言います。

「上杉家は強敵なれば、一兵でも多く召し具してゆきなされ。伏見城はわれひとりで事足りまする」と言って、元忠はたった1800名の兵で伏見城を死守。総勢約4万の兵が城を取り囲み、元忠も8月1日遂に力尽きます。380名以上が討死に、または自刃。しかも遺骸は関ヶ原の戦いが終わる約2ヶ月もの間、伏見城に放置されていました。そのおびただしい血痕や脂によって顔や鎧の跡が染み付き、いくら拭いても落ちなかったといいます。足で踏むなど忍びないと思ったのでしょう。家康は彼らの魂を成仏させるために、あえて養源院の天井にこの板を使用しました。

養源院に来ると、ガイドさんが棒で天井を指し示しながら解説してくれます。「ここに顔が、ここから肘が伸びている様子、片足はあぐらをかいて曲がったまま…」その説明を聞きながら目を凝らしてみていると、まさにあぐらをかいて自害し、臥せった元忠が、ありありと浮かんでくるのです。歴史の渦に、自分まで吸い込まれそうな、何とも不思議な感覚。不気味でありながらひどく物悲しい血天井に、しばし心を奪われるはずです。

当時無名だった絵師・俵谷宗達の、そのアバンギャルドな絵は必見!

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養源院の、伏見城から移築された牡丹の間には、狩野山楽の牡丹の折枝の襖絵があります。ほとんどの襖絵を狩野派が手掛けていた時代。当時無名だった扇絵職人・俵谷宗達はこの養源院にて描いた杉戸絵が、名を轟かせるきっかけになりました!俵谷宗達と言えば、「風神雷神図」があまりにも有名ですよね。この原点となったのが、養源院の杉戸絵なのです。

足を蹴り上げ、杉戸の中から今にも飛び出してきそうな唐獅子。白象や麒麟など、躍動感に溢れ美しい曲線美を見せるこの絵は、素晴らしいの一言に尽きます。現代アートと言っても過言ではないほどの斬新なスタイルは、見るものの心をとらえて離しません。重要文化財に指定されており、12面の襖絵は本堂の松の間に。杉戸絵白象図、唐獅子図、波と麒麟図は2面づつ8面に渡ります。白象は普賢菩薩の乗りもの。獅子は文殊菩薩の乗りもの。この両菩薩は釈迦如来の脇士(わきじ )として知られています。元忠たちの魂が少しでも安らかになるよう、この動物たちが描かれたのだとも言われています。

まだまだ登場。小堀遠州、石川五右衛門、左甚五郎が待ってます!

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「鴬張りの廊下と石川五右衛門」
養源院本堂の廊下は、すべて左甚五郎の作った「鴬張り廊下」。静かに歩くとキュキュッと耳に心地よい音が聞こえてきます。左甚五郎とは江戸初期、日本一の彫刻職人、伝説の彫り師と言われた人。日光東照宮の「眠り猫」に代表されるように、生き物を掘らせるとそのあまりの臨場感に、作品が動き出したともいわれています。鴬張りの廊下も有名な作品のひとつ。カラクリ廊下のようなもので、当時、侵入者を防ぐために施された細工によって、静かに歩けば歩くほど音が響くのです。忍者の忍び足にはうってつけの防犯対策でした。あなたも不思議なこの廊下を、ぜひ一度実際に歩いて体験してみてください。

さて、この鴬張りの廊下を、そうとは知らずにこっそり歩き捕まったのが、かの有名な大泥棒、石川五右衛門だとか。この鴬張りの廊下も、実は伏見城から移築したものです。だからこの場所で捕えられたのではなく、伏見城内で捕えられたということですね。五右衛門は盗みのため、伏見城内に忍び込みました。そろ〜りと廊下を歩き、まんまと鴬を鳴かせてしまいます。そこで御用!この後に、三条河原で釜茹での刑に処されるのでした。

実は、盗みに入った品物は香炉「千鳥」。五右衛門が捕まったのは、この千鳥が鳴いたからだ、という説もあるんですね。枕元に香炉を置いていた秀吉は、「千鳥が鳴いて知らせてくれたのだ!」と、鼻高々に言い放ったと言います。廊下の鴬が、千鳥の声に聞こえたのかもしれません。この香炉は現在名古屋にて保存。でもこの時の秀吉の寝室も実は、この養源院のどこかに移築されているようです。

「小堀遠州と四季折々の養源院」
父親が浅井家・豊臣家に仕えた、作庭師・小堀遠州による庭があります。阿弥陀ケ峯を遠くに望む形で庭園が造られ、茶室もあったそうです。現在、その庭は本堂の裏手となっていて、開放していません。しかし山門から参道、本堂周辺は、春には八重枝垂れ桜、秋には楓紅葉と四季折々の風景が楽しめます。また伏見城から移築した、秀吉手植えの「やまももの木」も樹齢400年。大きな存在感を放っています。

ここでしか見られない!「菊の御紋・三つ葉葵・桐」三つの御紋が並ぶわけとは!?

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養源院は浅井家一族の供養として始まり、建てたのが秀吉の側室淀殿。その意志を継ぎ、徳川家に嫁いだお江が、豊臣家の供養も行ないます。徳川家に嫁いだお江は後に、後水尾天皇の中宮として入内することになる和子(まさこ)を生みましたから、天皇家ともかかわりを持つことになるのです。この一連の流れを見ているだけで、複数の家紋が入り乱れるのは、なんとなく想像がつきますよね?

では、養源院の本堂に目を移してみましょう。そこには秀忠とお江の位牌が安置されています。さらに兄の将軍・家光の位牌も安置。こうして和子は、本堂を将軍家の位牌所として定めました。今も、徳川3代〜14代将軍までの位牌が安置されています。そして秀忠とお江の位牌をよく見てみると、「菊」「桐」「葵」の3つの紋が刻まれています。菊は天皇家の御紋、桐は豊臣家の御紋、葵は徳川家の御紋。相容れない3家の御紋が刻まれた位牌を見られるのは、ここ養源院だけなのです。

和子の入内後、紫衣事件が勃発。これにより夫である後水尾天皇(天皇家)と兄である家光(幕府側)の間に摩擦が生じてしまいます。母・お江のように、また自分も時代に翻弄されることとなるのです。3つの御紋を位牌に刻んだのは、敵となり味方となりながらも、養源院を支えてきた人たちへの、畏敬の念があったから。さらに身分や家柄に関係なく手を取り合える時代の到来。和子の中にこれを、心から望む気持ちがあったのではないでしょうか?

おわりに。

養源院は、浅井家の歴史と共に歩んできました。江戸時代の養源院は和子の頼みにより、兄の家光に庇護されていましたから、一般のかたは参拝できません。特別な寺として、将軍家や大名、高貴なものだけが参拝できたと言います。一般でも拝観できるようになったのは明治時代に入ってから。その制限もあって、血天井や宗達の絵など、さまざまな見どころが今も色濃く残されているのでしょう。

三十三間堂まで来たのなら、ほんの数メートル足をのばしてみてください!お江を始め徳川歴代将軍の位牌。元忠以下380名にも及ぶ血塗られた亡骸の跡、お市の方の供養塔もあり、無数の魂が眠っています。じわじわ来る養源院が、そこであなたを待っていることでしょう。ひっそりと佇みながら、実は何とも言えない濃厚な歴史。これを肌で感じるはずです。

アクセス:
市バス「博物館三十三間堂前」「東山七条」下車 徒歩約3分
京阪電車「七条」下車 徒歩約10分
住所:京都市東山区三十三間堂廻り町656
拝観料:500円
参拝時間:9時〜16時
お問い合せ:075-561-3887

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/10/20 訪問

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