山陰の天空の城・津和野城跡へ〜行きは揚々、帰りは・・?!

山陰の天空の城・津和野城跡へ〜行きは揚々、帰りは・・?!

更新日:2014/11/11 14:23

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家
山陰の小京都と言われる津和野町は、中国山脈の末端、島根県の西南の山あいの城下町で、白壁と赤瓦の家並みが続き、古くから地方経済文化の中心地として栄えた町でもあります。約700年前に開祖吉見頼行が封地され、吉見氏14代、坂崎出羽守16年、亀井氏11代の居城となった津和野城は、明治まで使われていた歴史ある城跡です。城下には文豪森鴎外旧跡や道沿いの掘割を泳ぐ鯉、なまこ塀の家にカトリック教会など見所も沢山♪

山城として中世に築城された津和野城跡へ

山城として中世に築城された津和野城跡へ

写真:村井 マヤ

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津和野城跡は、町からも西の山上に石垣を見ることができます。最初に城が築かれたのは鎌倉時代で、蒙古の襲来に備えて、吉見氏が築いた土塁のみの簡単な山城でした。その後、戦国時代、江戸時代を経てまれに見る豪壮な山上の防塁を持つ城郭へ。

文部省の指定史跡でもあり、三本松城、蕗城、たく吾城などの別称もあります。開祖と言われる吉見頼行は、文永・弘安の役(1268-1281:いわゆる元寇)の勲功として西石見の追補使(地頭職)を命じられ、永仁3年に築城を開始しました。吉見氏は関ヶ原の合戦で、毛利氏とともに西軍に付き敗れたため、毛利氏が防長2か国に押し込められると、吉見氏もしたがって萩へ退転しました。

吉見氏のあとを引き継いだ坂崎出羽守は、慶長5年に津和野城に入城。この方、実は大阪城から千姫を助け出した悲恋・悲劇の武将です。もともとは宇喜多詮家(うきた あきいえ)と言いました。なんだかドラマチックな物語がありそうですね・・。
坂崎氏の後は、亀井氏が入城。江戸時代の藩庁は、山麓に置かれたようです。

城跡には、リフトで登る!行きはよいよいです・・

城跡には、リフトで登る!行きはよいよいです・・

写真:村井 マヤ

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津和野城跡へのアクセスは、リフトが便利です。津和野町城跡観光リフト乗り場のすぐ下に駐車場があるので、そこまでは車で向かいましょう。

体力に自信のある方は、日本五大稲荷の1つでもある「太鼓谷稲成神社」の千本余りも連なる朱の鳥居のある階段を登ってみませんか?このお稲荷さんは、日本で唯一「稲成」と表記され、願望成就の願いが込められた神社です。麓で、油揚げと蝋燭・マッチのセットを購入して参道を登ってみましょう・・。

かなりハードですが、こちらを登って神社からの眺望を楽しむのも良いのでは。お参りを済ませ、神社の駐車場を抜けてしばらく歩き、先述したリフト乗り場へ行くという方法もありますよ!

リフトは往復で、400円(大人)。もし駅前のレンタサイクルなどを利用されますと割引券をもらえますから、ご利用になって下さいね。

*写真は津和野城側から町を見下ろしています。ご覧のとおりかなり高いので、高所恐怖症の方にはお勧めできませんが・・。

山城ですが、井戸もあった天空の城・・

山城ですが、井戸もあった天空の城・・

写真:村井 マヤ

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リフトを降りて、リフト乗り場の係りの方の指示に従って、お城跡へ・・。途中堀切跡などを見ることができますよ。堀切とは、山城や丘城で屋根を直交に遮断して、敵の侵入や攻撃を防止するために掘削したもの。中世の山城の名残をうかがえる遺構ですね。

ちょっとしたトラッキングといった感じのお城への行程です。実は、ここでちょっとご注意を!実は、津和野は山深い山陰の町です。
このお城のある山には「熊出没注意!」の看板が・・。でもご安心を!基本的には、歩道を外れなければ遭遇する可能性は低いとのこと。でも、秋口などは、注意が必要かもしれませんね・・。お弁当の食べ残しやジュースの缶など、ご自分が出したゴミは持ち帰りましょうね。マナーを守って、お城跡を散策してください。できれば明るいうちに城跡には到着したいもの。

道順から行くと最初に「出丸跡」があります。出丸跡からの眺めもなかなか良いので、是非登ってみて下さいね。

出丸跡を後にしてしばらく歩くと、東門跡が見えてきますよ。少々山崩れの影響で足場が悪くなっていますが、石垣などはちゃんと残っています。この山の上に、よくここまでの城を築いたものだと感心させられますよ。

この城は、天文23(1554)年の「三本松城の役」では、大内氏、陶氏、益田氏その他の大軍に山麓を包囲されましたが、100日間に及ぶ篭城戦に耐え抜いたと言われています。
*写真は、三十間台です。眼下に津和野の町が見渡せます。

戦国から江戸時代の歴史を刻んだ城・・悲恋の坂崎出羽守の居城にも

戦国から江戸時代の歴史を刻んだ城・・悲恋の坂崎出羽守の居城にも

写真:村井 マヤ

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萩へ退転した吉見氏はその後、江戸時代初めに謀反の疑いで当主の吉見広長が誅殺され、吉見氏は吉川広家の子の就頼が継ぎました。やがて就頼は毛利姓に復し大野毛利家を興したため、吉見氏は断絶しました。

代わって関ヶ原の合戦で、東軍に属した坂崎直盛が3万石(後に加増され4万3468石)で入城し、城の大改修を行いました。大手門の位置を吉見氏時代の搦手側に改め、出丸や織部丸を築きました。この時、二の丸に天守を築きました。直盛は元和2(1616)年に千姫事件で自害(または家臣に殺されたとも)し、坂崎氏は改易となりました。この事件によって、悲恋の人として語られているようです。坂崎氏は、新田開発や灌漑用水路の建設など、津和野の町の基礎をつくった名君だったそうです。

元和3(1617)年因幡国鹿野藩より亀井政矩が4万3千石で入城。以後、明治維新まで11代にわたり亀井氏の居城となりました。貞享3(1686)年、城は落雷にあい火災が発生し、この際に天守も焼失し、以後再建されることはありませんでした(一説では大地震でなくなったと言われています)。藩主の屋敷自体は、現在津和野高校がある場所にあったようです。また、山麓には馬場先櫓(島根県指定文化財)、物見櫓が現存していますので、是非ご覧ください。

明治になって廃城となり、解体されましたが、西門櫓や南門櫓の石垣、三十間台の石垣などは、悠久の時を感じさせ何とも風情があります。

さながら、プチ天空の城の風情・・

さながら、プチ天空の城の風情・・

写真:村井 マヤ

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城跡に立つと、まるで天空に浮かぶ城のごとく、眼下に赤瓦の町並みを眺めることができます。正面には青野山の美しい姿も見ることができます。

廃城となった石垣のまわりに、ケヤキやカエデの林があり美しい紅葉も楽しめます。石垣と素晴らしい眺めは、絶景です。津和野の城下町散策に来られたら、足を延ばしていただきたい城跡です。

帰りも同じ道のりをリフト乗り場まで。帰りのリフトの方が若干怖いのですが、スリル満点のリフト旅ですよ・・。下を見ずに遠くを見て下さいね!とリフト乗り場の方のアドバイス通り、遠くの景色を楽しんで下さいね・・。

リフトの旅でスリル満点の津和野城跡散策・・。

少々怖い思いをして、素晴らしい絶景を見るのも悪くないですよ。一生に一度見ることができるかできないか・・。天気や季節に左右されるので、津和野城跡に行くことができるチャンスは、逃さないでくださいね♪

津和野観光については、下記MEMOを参照にして下さい。また、津和野は「貴婦人」と言われたSLやまぐち号が、発着します(3月〜11月の指定日)。汽笛の音が郷愁をそそりますよ。

津和野城跡で、しばし時間を忘れて揺蕩うのも良いのでは・・。

*津和野城跡へは、リフトか登山道(約1時間:利用できないときもあり)を利用。冬場はリフトが動かないこともあるので注意!リフトは、土日営業となっております。詳しいことは津和野観光協会へお電話で問い合わせされると安心です。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/10/26 訪問

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