写真:乾口 達司
地図を見る「備前陶器窯跡」のなかでも真っ先に国の史跡に指定されたのは、JR伊部駅の南側に位置する伊部南大窯跡。昭和34年のことでした。榧原山の北麓に位置する当窯跡は桃山時代から江戸時代にかけて操業しており、大別すると、東窯・中央窯・西窯の3箇所から成ります。なかでも、注目したいのは写真の東窯。その全長は約54メートル、幅は約5メートルにおよび、全国に点在する窯のなかでも最大の規模を誇っていました。床面を掘り下げた上に天井を設け、それを土柱で支えるというトンネル構造であったのも特徴であり、まさしく「備前陶器窯跡」を代表する窯跡であったといえるでしょう。
写真:乾口 達司
地図を見る南大窯ではおもに壺や甕、徳利などの日用雑器類のほか、花器などが焼かれていました。一回の焼成で作られる製品の数は34000〜35000個!それを作るのに15000〜16000貫(約56〜60トン)の薪が使われたと考えられています。備前焼がいかに多くの人に求められていたか、その圧倒的な数量からもうかがえますね。
もちろん、これだけの数が一度に焼かれると、不良品や破損品もたくさん出ます。商品価値のないそれらは焼きあがった直後に選別され、その場で廃棄されました。そのことを指し示すように、窯跡の周辺には不良品・破損品を廃棄した「物原」(ものはら)が残されています。ご覧のように、いまでも当時の陶片が無数に散乱していますが、それらが堆積し、巨大な山のような状態となっている光景は圧巻そのもの!「物原」の巨大さからも、備前焼の生産量がいかに凄まじかったかが実感できるでしょう。もちろん、敷地内に堆積している陶片も備前焼の豊かな歴史を証明する貴重な文化財です。興味本位で持ち帰ったりしてはいけません。
写真:乾口 達司
地図を見る伊部駅の北西にそびえるのは、標高310メートルの医王山。その東麓に位置しているのは、西大窯跡です。ここには傾斜角度15度前後に築かれた全長約37メートル、幅約5メートルにおよぶ大窯があったことが確認されています。操業の時期は17世紀を中心とする江戸時代全般。南大窯跡と同様、日用雑器類が焼かれていたことが、周囲に散乱する陶片からうかがえます。
写真:乾口 達司
地図を見る伊部駅の北方、標高213メートルの不老山のふもとに位置するのは、忌部神社(いんべじんじゃ)。その境内に残されているのが北大窯跡です。平成21年、西大窯跡とともに国指定の史跡に登録されました。
北大窯跡は3基の窯跡から成り、もっとも大きいのは、傾斜角度20度の斜面に築かれた全長約33メートル、幅4メートルから5メートルの規模を誇ります。それと並ぶようにして築かれている窯は全長約25メートル、幅約5メートルの規模。両者のあいだには全長18メートル、幅6〜8メートル、深さ2〜3メートルにおよぶ巨大な窪みが存在していました。これは窯を保護するために設けられた溝であると考えられています。
写真:乾口 達司
地図を見る忌部神社の西方、北大窯跡から歩いて数分のところに大きな覆屋で保護された窯跡が残されています。備前市指定文化財の天保窯です。その名のとおり、江戸時代末期、天保3年頃に築かれた窯で昭和15年頃まで実際に操業していました。現在の窯は17.5メートルほどですが、実際には23メートルほどの規模であったと推定されています。現在、当地に点在する古窯のなかで築窯当時の姿をとどめているのは、この天保窯のみ。まさしく、備前焼の歴史を見つめてきた生き証人というべき存在であるといえるでしょう。
いまでも多くの人に愛され、親しまれている備前焼。その歴史がいかに古く、貴重であるか、おわかりになりましたか?古文書ではほかにも室町時代中期の応永年間(1394〜1428年)に築かれた「応永の大窯」と呼ばれる大窯が当地に存在したことがわかっています。北大窯跡を「応永の大窯」であるとする学説もありますが、北大窯跡から出土する陶片の制作年代が室町時代末期よりもさかのぼらないことを勘案すると、近い将来、別の場所から「応永の大窯」の本物が発見されるかも知れません。今後も新たな発見が次々想定される伊部地区の備前陶器窯跡。備前焼を買い求めがてら、その豊かな歴史を学ぶためにこれらの窯跡めぐりも楽しんでみてください。
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(2024/11/3更新)
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