写真:井伊 たびを
地図を見る将門伝説は、将門の本拠地と伝えられる茨城県岩井市や、茨城県守谷・取手、千葉県我孫子・野田・柏に、千年あまりの時を経てもなお語り継がれている。
天慶3年(940年)坂東8国を支配し「新皇」を名乗った将門を、朝廷が反逆者として征討を命じた将門の乱は、無念にも敢無く流れ矢によって将門が討死し敗退した。
一族縁者郎党は、厳しい残党狩りを逃れ、利根川本流から支流や水郷湖沼沿いに船で必死に逃れ近辺から離れたこれらの地域に身を潜めることとなる。
住みついた地域には旧出身地名・出生旧姓を隠し、一族には分かるが朝廷に悟られない名を残したという。
また、一族の無念さや裏切り者への怨念は未だに残る。将門を裏切った愛妾桔梗御膳を疎んじて桔梗を絶対に植えず、将門の調伏を祈願した成田不動には詣でない。さらに、将門を滅ぼした平貞盛・藤原秀郷に味方した村落の者とは婚姻しない。
写真:井伊 たびを
地図を見るここ「将門神社」は、将門の三女の如蔵尼が父の霊を収めるべくこの地に祠を祀ったのが始まりで、社殿は安政6年(1859)再建されたものだ。総欅材・寄棟片流造・破風構え神社造で各壁面には精巧な彫刻が施されている。
戦いで不本意にも流れ矢に右目を射抜かれ即死した将門に倣い右目が未完成の「隻眼の姫君」や、巧みな騎馬戦術で敵を蹴散らした関東馬の「放駒」を見ることが出来る。
写真:井伊 たびを
地図を見る本殿の背面には「放駒」の雄姿が砂煙を巻き上げて、駆け抜ける様子が生き生きと彫られている。さらに、胴羽目・左の「高砂」「鶴亀」や、犬と遊ぶ「金太郎」。
また脇障子に彫られた「巨霊人」や「玉巵」は圧巻である。時の過ぎるのも忘れ、見入ってしまう彫刻の数々は、訪れた人の心に深く刻まれることだろう。
写真:井伊 たびを
地図を見る将門の三女・如蔵尼ゆかりの「岩井山 龍光院」は、「将門神社」と同じ境内にある。
ところがある一説によれば、将門の死後、その次女・春姫がこの地に隠れ住み、名を如春尼に改め、一族の菩提を弔ったともされている。
しかし、如春尼については、不明な点も多く詳しいことがはっきり分からないため、「如春尼」と「如蔵尼」とが曖昧になってしまっていると聞く。
寺院自体の創建は長亨2年(1488)で、真言宗豊山派の古刹。本尊は不動明王である。ここは、成田不動に地域住民が対抗して創建したのではないかとされている。
写真:井伊 たびを
地図を見る境内には将門三女・如蔵尼が、崇拝した金色の地蔵菩薩像を納めてある小さな祠・地蔵堂がある。将門とその一門の菩提を弔ったものと伝えられている。如蔵尼の名前は地蔵菩薩に関連する名だそうだ。
アクセス状況があまりよくないので、車で訪れることをお勧めする。
社殿は再建後、百五十年あまりの風雪に耐えているので痛みははげしい。
しかし、本殿全面に施されたすばらしい彫刻は、手が届きそうな至近距離から堪能でき、その匠の技のすばらしさは、いまでも息づいている。
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(2023/12/3更新)
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