ドラマ「花燃ゆ」の青春〜山口県萩市で幕末の志士の面影を追う

ドラマ「花燃ゆ」の青春〜山口県萩市で幕末の志士の面影を追う

更新日:2015/01/07 10:46

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家
NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の舞台・山口県萩市で、幕末の志士たちの旧居やゆかりの土地を巡り、かれらの青春を覗いてみませんか?大河ドラマのヒロイン・文の最初の夫・久坂玄瑞の誕生地や幕末の志士たちの旧居に併せ、妻との物語などをご紹介します。激動の幕末を怒涛のような勢いで駆け抜け、夢と希望、新しい世の中を目指して奮闘した志士たち。彼らが、幼いころ過ごした萩の町。熱い思いを育んだ萩で情熱のかけら探しを♪

初代内閣総理大臣・伊藤博文は、努力と勤勉の人

初代内閣総理大臣・伊藤博文は、努力と勤勉の人

写真:村井 マヤ

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山口県萩市の松陰神社から歩いて数分、伊藤博文旧宅地と附伊藤博文別邸があります。
伊藤博文は、この萩の生まれではなく、天保12(1841)年9月2日に、百姓の父十蔵と琴子の長男として周防国熊毛郡(現山口県光市)で生まれました。幼名は、利助。父十蔵は萩城下に出稼ぎへ。嘉永2(1849)年9歳の時に、父に呼ばれ萩に移住。家が貧しかったため、12歳頃から奉公に出されたりしました。

父・十蔵が、安政元(1854)年に下級武士だった伊藤家の養子となったことで、14歳の時から伊藤姓を名乗り、17歳で松下村塾に入塾、吉田松陰に学びました。身分が低かったので、塾の外で立って聞いていたといいます。学ぶことへの情熱を感じますね。

伊藤博文の旧宅は、茅葺き平屋建て29坪の広さ。博文は、志士としての活躍や英国留学など多忙で、この家にあまり居なかったようですけどね・・。

旧宅の隣には、伊藤博文が明治40(1907)年に東京に建てた別邸の一部も移築されています。玄関や大広間、離れ座敷3棟のみの移転ですが、明治時代の宮大工伊藤満作の素晴らしい意匠をご覧になれます。また、お庭には明治天皇から頂いた灯篭が・・。ガイドさんが詳しい説明をして下さいますよ!

博文の最初の結婚は、松下村塾時代でした。妻は、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿とともに松門四天王と呼ばれた、入江九一の妹すみ子。
ところが、馬関の芸者だった梅子を好きになり、子供を授かったことによりすみ子と離婚。26歳で梅子と結婚。梅子とは、仲の良い夫婦だったようです。すみ子さんは、のちにほかの方と結婚したそうです。

「維新の三傑」こと木戸孝允は、「逃げの小五郎」とも・・

「維新の三傑」こと木戸孝允は、「逃げの小五郎」とも・・

写真:村井 マヤ

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この旧宅は、木戸孝允の実の父・和田昌景の家。木戸孝允は、天保4(1833)年にこの家に生まれ、8歳で桂家の養子となり、桂小五郎へ。でも、この家に嘉永5(1852)年江戸に行くまでの約20年間過ごし、ほぼ半生を過ごした家と言えます。

和田家は藩医の家柄。家の保存状態もよく、もちろん内部の見学も可能。孝允が生まれた部屋や庭など当時の姿を留めていたため、昭和7(1932)年に国の史跡へ。部屋数も多く、かなり裕福な暮らしぶりだったようです。とは言え家格は、下級武士クラス。父親が腕利きの蘭学医で、収入が良く裕福になったとか。孝允が養子に行った近所の桂家は、150石取りの中級武士でしたが、養父母が亡くなり、実家ででそのまま暮らすことになりました。

17歳で、藩校明倫館で吉田松陰に学びます。ちなみに藩校は、中級以上の武士しか学べません。木戸孝允は、桂家の養子になり武士になったことで明倫館に通えたそうです。
吉田松陰は、明倫館で山鹿流兵学を教え、私塾松下村塾で、近所の子供や下級武士への教育を行っていたのです。
孝允は、松陰に「事をなすの才あり」と評され、またのちに「桂は、我の重んずるところなり」とまで言わしめ、松陰と親友になりました。

そんな木戸孝允は、意外にも剣豪だったんですよ!でも真剣を抜いて闘うことはあまりなかったようです。そこから「逃げの小五郎」という異名もつきました。

明治維新以後は、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれました。心労も多かったらしく西南戦争のさなか亡くなりました。享年45歳。早すぎる死ですよね・・。

動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し!幕末の革命家高杉晋作

動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し!幕末の革命家高杉晋作

写真:村井 マヤ

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長州藩部隊 「奇兵隊」を 結成!幕末の風雲児と呼ばれた高杉晋作誕生地は、代表的な萩城下町の風情を残した界隈にあります。晋作の生家のある菊屋横丁近くには、豪商菊屋家や、田中義一(第26代内閣総理大臣)誕生地もあります。

生家は、お庭側から家の中を見学する形になっています。写真や妻に送った手紙、上海で購入し坂本龍馬に贈られたリボルバーの模型など興味深い展示物もありますよ。

上の写真は、晋作が詠んだ歌「西へ行く人をしたひて東に行く 心の底そ神や知るらむ」の歌碑。奥の写真は、防長1番、萩城下1番の美人と言われた高杉晋作の妻・雅子(マサ/1845-1922)です。晋作の死後しばらくして、雅子たちは東京へ移り住んだようです。旧宅の係員の方に、いろいろお話を伺ってみて下さい。詳しく教えて下さいますよ♪

高杉家は、藩政当時500坪の広さがありましたが、現在は南半分のみ。現存する当時の建物は、座敷、次の間、居間2室などです。庭園には、高杉家の先祖が広島から萩に移る際に持ってきた鎮守や裏庭には井戸も残っています。
そうそう高杉晋作は、毛利元就の時代から毛利家に仕えた家柄であることを誇りに思っていたといいます。
旧宅に行かれたら、思う存分晋作の夢や希望などに思いを馳せて下さいね。

松陰に「防長一流の人物」と言わしめた久坂玄瑞の青春と妻・文

松陰に「防長一流の人物」と言わしめた久坂玄瑞の青春と妻・文

写真:村井 マヤ

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久坂玄瑞は、天保11年(1840年)長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に萩藩医・久坂良迪、富子の三男・秀三郎として生まれました。15歳の春に秀三郎は家族全てをあいついで失いました。こうして秀三郎は、藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めました。そして16歳になった頃には、早くも玄瑞の秀才の英名は萩城下の内外に知れ渡っていました。身長は約180cmほどあり、声が大きく美声でハンサムだったとか。翌安政4(1857)年晩春、正式に松陰に弟子入りしました。

松下村塾では高杉晋作と共に「村塾の双璧」、高杉・吉田稔麿・入江九一と共に「松門四天王」といわれました。松陰は久坂を長州第一の俊才であるとし、高杉と争わせて才能を開花させるようにしました。そして、安政4(1857)年12月5日、松陰の妹杉文と結婚。

「久坂玄瑞は防長に於ける年少第一流の人物で、無論また天下の英才だ。」松陰が嫁ぐ妹に贈った言葉です。

坂本龍馬は、文久2年(1862)年、武市半平太から玄瑞への手紙を携え、萩を訪問。9日間萩に滞在したそうです。二人はどんな話をしたのでしょうね。久坂玄瑞が萩を訪れ龍馬に託した武市半平太宛ての書状の内容が近年公開されましたが、龍馬がその内容に影響を受け脱藩したのではないかと推測されています。

久坂玄瑞は、禁門の変によって鷹司邸で自刃、享年25歳。文には子供がなかったので、姉の子を養子として久坂家に迎えていました。
ところが、明治2年10月の事、久坂の恋人井筒タツが、子・秀次郎の事を久坂玄瑞の息子として萩藩に届けたのです。文にとっては、まさに青天の霹靂ですよね・・。どんな気持ちだったか計り知れませんが・・。人生いろいろですよね。

久坂玄瑞誕生地は、今や建物などは残っておらず碑が立っているのみですが、純粋で情熱家だった玄瑞が生まれた場所は感慨深いですよ。

杉家の家族愛を残された手紙などから推察〜萩博物館特設展示室〜

大河ドラマ「花燃ゆ」の放映に合わせて、萩博物館特設展示室では、「兄 松陰と妹 文〜杉家の家族愛〜」と題した期間限定の特別展示をしています。期間は、平成26年11月8日から平成28年9月4日まで。松陰の手紙59通、文の手紙などを定期的に入れ替えながら展示されます。期間中是非足を運んでくださいね。
久坂玄瑞が妻文に送った手紙をまとめた「涙袖帖(るいしゅうちょう)」も展示されています(平成27年6月21日までの予定)。

また平成27年1月11日から平成28年1月10日まで、旧明倫小学校体育館に「文と萩物語〜花燃ゆ大河ドラマ館〜」も開館します。併せてご覧ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/10/26 訪問

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