「三塔十六谷」と言われる比叡山の三塔それぞれに中堂、すなわち中心になる仏堂がありますが、その最大の仏塔が東塔の根本中堂です。伝教大師最澄が一乗止観院として創建。当初は、最澄自らが刻んだと伝えられる薬師如来(秘仏)を祀っただけの小堂でした。
その後、災害の度に大規模になり、現在の中堂と回廊は寛永11(1634)年、徳川家光により再建されたもの。
ここの見どころは、トケイソウやケマンソウなど、当時まだめずらしかった外来の草花が描かれた天井板の200枚もある「百花の図」です。
そしてお堀のような土間の内陣に高く石壇を築き、その上の厨子におさまるご本尊を1200年絶やさず灯しつづけてきた「消えずの御灯明(みあかし)」がほんのり照らし出す光景には思わず息を呑みます。
空海のもたらした真言密教との相克の中から最澄は、比叡山を大乗仏教のもっとも新しい宗派道場とするためには、南都の旧仏教による僧綱支配から逃れて大乗菩薩戒(すなわち僧侶になる資格認定の戒壇制度)を独占することだとして、弘仁9(818)年、南都の小乗五十戒(具足戒)の棄捨を宣言します。
以来、南都の旧勢力からの激しい反発を跳ね返しながら天皇の勅許を待ちつづけました。
しかし、遂に生前にはかなわず、入滅後7日目の弘仁13(822)年6月11日になって大乗戒はようやく勅許されることになりました。でも、そのお蔭で比叡山は日本仏教界の母山となることができたのです。
教理究明を第一義とするか、理論はそこそこにして、誰もが恩恵を被ることのできるシステムをまず導入すべきか。現在でも通じる2つの考え方ですね。
その戒壇院が、伝教大師の意志を継ぐ第一世座主・義真の天長4(827)年頃東塔に建立され、名実ともに官制の国家鎮護仏教のセンターとなったのです。そんな因縁のあるお堂ですが、室町初期に大いに発展しましたが、やはり抗争の絶えない比叡山では堂宇はそのたびに焼失してきましたので、現在のものは延宝6(1678)年和様建築に禅宗様(唐様)を採用して建立されたと伝えられています。
そんな次第ですので、東塔の戒壇院はある意味、比叡山の心臓部といえましょう。
張保皐(ちょうほこう)は新羅の人で、統一新羅時期に清海大使として新羅、唐、日本にまたがる海上勢力を築いた国際人です。
彼は、9世紀前半、山東半島の港町の赤山に赤山法華院を寄進するとともに、入唐請益僧だった円仁の長期不法在唐を実現させたのを始め、円仁の9年余りの求法の旅を物心両面にわたって支援しました。
円仁の帰国の際には張保皐自身はすでに暗殺されていましたが、部下の将張詠(しょうちょうえい)が帰国実現に尽力したといわれます。
円仁の『入唐求法巡礼行記』には、この人物が張宝高として数箇所登場しています。
この張保皐の顕彰碑が根本中堂を見おろす高い石段の上にある文殊楼の脇に建てられているのです。
また、京都の赤山大明神は、円仁の弟子が円仁の志を継いで新羅人の神を祭るために888年(仁和4年)に建てたものです。
円仁は五台山の一つ北台葉頭峰(3058メートル)に登頂した際に手に入れた香木で文殊像を造り、帰国実現ののち861年(貞観3年)10月、延暦寺に文殊楼を建立しました。
ところが、織田信長の比叡山焼き討ちで焼亡し、寛文8(1668)年にも出火のため焼失してしまいます。現在の文殊楼はその後に再建されたものです。
正式参拝ではまずこの門をくぐって東塔入りすることになります。
文殊堂では、堂内の急な階段を登れば、楼上の文殊さんに会えますので、どうぞ、門前を通過するだけでなくぜひ登りましょう。
東塔は、比叡山の歴史にかかわるさまざまな堂塔がひしめいています。坂本から徒歩、またはケーブルで登れば、文殊楼から入山できますが、大方の人は根本中堂を巡ってから、文殊楼へ行くようです。
山上のロータリーバスを利用して急げば東塔から西塔を巡っても日帰りできますが、比叡山はわが国仏教の一大テーマパークを成し、山頂の堂塔を道草を食いつつ巡ることでしか発見できないものが多く、のんびり行き、行けなかったところは次の宿題にするくらいの気持で行くことをお勧めします。
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(2024/12/12更新)
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