天正年間に秀吉の許しを得て開設された歌舞音曲の遊宴の町、すなわち花街は江戸期にもっとも発展します。
島原の花街は、文化サロン的な宴会場の「揚屋」と、そこに太夫や芸妓を派遣する「置屋」の分業制をとっていました。
置屋は、今の料亭の規模の大きいものと考えれば分かりやすいと思います。
セレブたちの宴席に立ち会う太夫や芸妓は、読み書きはもちろん、古今の文学に精通し、賓客以上の教養を求められたことから、島原では当時トップクラスの女性たちによる文化サロンが形成されて行きます。
この揚屋は、江戸の吉原では宝暦10(1760)年完全に消滅しますが、京都の島原や大阪の新町では拡張を重ねて大型宴会場へと特化していきます。
その特徴は、大座敷や広庭、茶席を設け、庫裏と同等の台所を備えることにあります。
交通の不便さから江戸末期には非公認の祗園にとって変わられ、明治以降は次第に廃れていきますが、この迎賓館として機能した揚屋のもてなしの文化遺構は、一見の価値があります。
*写真は島原入口の「大門」(慶応3(1867)年再建)。
鎖国が続いた江戸時代に純粋発酵した日本の文化と足並みを揃えて特化していった花街の料亭を「揚屋」と呼んだのはなぜでしょう。
それは、京都の屋敷は間口が狭く、奥行のある小規模建物であったことから、1階を台所および居住部分とし、2階を主たる座敷としたのです。
その2階へお客様を揚げることから「揚屋」と呼ぶようになりました。
江戸の吉原の揚屋は早くから廃れてしまいますが、京・大坂の揚屋は拡張を続け、蕪村の亡くなった天明4(1784)年頃には、現在残っている角屋のような1、2階とも大座敷があり、広庭つきの屋敷になりました。
*写真は角屋の帳場のある台所。
枯山水白砂の庭園は、龍が臥せたように作られた臥龍松と曲木亭(重文)、清隠斎茶席(重文)などがあります。
その庭に開けた松の間は、岸連山筆「桐に鳳凰図」の襖絵、岸良筆三方正面「布袋の図」の衝立などで飾られ、多くの文人墨客が訪れました。
新撰組はもちろん、幕末には勤皇派の久坂玄瑞、西郷隆盛、坂本龍馬などの密議に使われたといわれます。
玄関を入ってまず案内される大座敷は天井板を網代組(あじろぐみ)にしているところから「網代の間」と呼ばれています。
長押は北山杉を使用し、棹縁は長さ4間の北山丸太で、釘隠しは銅製鍍金の宝づくしとなっています。
こちらにも中庭があり、玄関を入ってくると中庭が真正面にみえるように設計されているとのこと。
角屋には、建物の端々にいたるまで、こうしたもてなしのためのさまざまな工夫がなされています。
そして、角屋のもてなしの空間の真骨頂は、揚屋の名前の通り2階にあります。
特別公開の室内は、それぞれ贅を尽くした「翠簾(みす)の間」、「青貝の間」ほか、あわせて6間あり、修復のため未公開の座敷が4間以上もあります。
案内の説明を聞きながら巡る30分ほどの時間は、その絢爛豪華さに只々ため息が出るばかりです。
島原は官命により、三度移転を強いられ、現在地の朱雀野に引っ越してきた折のそのあわただしい移転騒動は、数年前に起きた島原の乱を思わせたことから「島原」と呼ばれるようになりました。が、正式名称は「西新屋敷」です。
この囲廓(かこいくるわ)的な都市構造をもつ島原には6つの町内があり、冒頭の大門を西に入って2筋目の中堂寺町には、築後150年の町家で営むカフェHygge(ヒュッゲ)があります。
デンマークの王室御用達のACパークスの紅茶、台湾やベトナムのお茶など、こだわりの多彩な紅茶の数々が評判を呼んでいます。
その他、自家製カレーとパスタをメインにケーキ、クッキー、あんみつなどメニューも豊富。いずれもとてもおいしいものでした。
とりどりのチーズやオーガニック・ワインも楽しめます。
ヒュッゲ
電話075-708-7958
定休日 11:00〜22:00(毎水曜日と第3火曜日 定休)
*写真 アンティークショップとなっているカフェスペースの奥
島原の東隣りの区域には広大な敷地の西本願寺があり、こちらと抱き合わせにプランすれば充実した1日となるでしょう。
アクセスはJR丹波口駅から徒歩7分が便利です。
角屋もてなしの文化美術館
開館時間 午前10時〜午後4時
休館日 月曜日(祝日の場合翌日)
入館料
一般1000円、中・高生800円、小学生500円
(2階の特別公開料金を除く)
※2階の特別公開の座敷は、事前にお電話予約が必要です。
電話番号 075-351-0024 (午前10時〜午後5時)
入場料の他に別途料金が必要。大人800円、中・高生600円
2階特別公開 ご案内時間(約30分)
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(2023/11/28更新)
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