坂本龍馬も剣術試合をした?!山口県萩市・旧萩藩校明倫館へ

坂本龍馬も剣術試合をした?!山口県萩市・旧萩藩校明倫館へ

更新日:2018/10/26 14:36

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家
萩市内江向にある明倫小学校(2014年に新校舎竣工)敷地内に、旧萩藩校明倫館の遺構が残っています。小学校の校舎も、国道191号沿いに堂々とした佇まいを見せています。旧明倫小学校本館も、外観からしてレトロな風情!敷地も広大です。新校舎が竣工して、現在この小学校は使用されていませんが、この学び舎で萩の郷土愛も育まれたのでしょうね。明倫館は、水戸の弘道館、岡山の閑谷学校と並び日本三大学府の1つでした。

旧明倫館小学校本館と観徳門〜威風堂々とした佇まい〜

旧明倫館小学校本館と観徳門〜威風堂々とした佇まい〜

写真:村井 マヤ

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写真の左手が旧明倫館小学校本館で、右は「観徳門(かんとくもん)」です。なんと立派な小学校ではないでしょうか・・。

藩校明倫館は、享保3(1718)年に5代藩主毛利吉元が萩城三の丸追廻し筋(堀内)に創建されました。13代藩主敬親の時代、嘉永2(1849)年、藩政改革にともなって現在地江向に移転しました。約5万平米もの敷地内に、学舎、武芸修練場、練兵場などがありました。現在残っている遺構は、南門、明倫館碑、観徳門、聖賢堂、有備館、水練池です。
観徳門は、南門と現在海潮寺本堂になっている孔子廟(聖廟)の中間に位置していた聖廟の前門でした。一時、本願寺萩別院の客殿門になっていましたが、昭和57年に現在の場所へ。

木造瓦棒銅板葺、左右に唐破風を備えた平唐門があり、桁行2.5m、梁間1.45m、両袖連子格子の塀がついています。

この明倫館は、吉田松陰も教鞭をとり、高杉晋作や木戸孝允、楫取素彦なども通った藩校です。

小学校の本館は、国登録有形文化財山口県第1号で屋根のフランス瓦や連続する窓の意匠が特徴的!1階は簓子下見板張り(日本建築の英知が産んだ工法)、2階部分は白漆喰塗りで美しい外観です。木造学校建築の好例と言われています。近くで見ると迫力あります!是非ご覧下さいね。

旧藩校明倫館の剣術、槍術の稽古をした道場・有備館!

旧藩校明倫館の剣術、槍術の稽古をした道場・有備館!

写真:村井 マヤ

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有備館とは、藩校明倫館で剣術や槍の稽古をした道場のこと。有備館という名前は、大正4(1915)年に江戸桜田萩藩邸内にあった文武講習所の名をとったもの。
「剣槍稽古場」という名前が、当時の図面に記載があり、その横に「他国修行者引請場」とあります。これは、藩士の修練場であると同時に、他国からの剣や槍の修行に来た者の道場であったことを示しています。

明倫館内には他にも剣術場が4棟、槍術場が3棟ありそれぞれ師範がおり自家道場としていました。

有備館は、旧明倫館にあったものを移転したと伝わっています。明治維新後、明倫館は閉校し明治9(1876)年頃には、建物の大半は破壊されてしまいました。この建物は幸いにも残っていますが、畳の間や土間は板床に改造、小学校の校舎として使用されていました。昭和24(1949)年7月に国の史跡へ。昭和44(1969)年から45(1970)年にかけて保存修理工事が行われ、当初の建物様式に復元されたそうです。

龍馬も剣術の試合をした有備館の道場内部は必見!

龍馬も剣術の試合をした有備館の道場内部は必見!

写真:村井 マヤ

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写真は、有備館の内部で剣術場です。現在の有備館は、中央で剣術場と槍術場に分かれており1つの建物ですが、旧明倫館にあったときには、本門を挟んで別々の建物だったようです。
明倫館に移転の際に2つの建物を1つに合わせて、現在の位置へ移転改築された模様(一説には新築とも)。

「他国修行者引請場」と書かれた看板を見上げながら、有備館内部へ。左手が剣術場、右手が槍術場、入口を真っ直ぐ奥に行くと藩主が控えていた部屋があります。剣術場の端の方に藩主が道場の様子を見た「藩主上覧場」も。写真の左端の畳敷きの部分が藩主の場所。槍術場は、半分が畳の間になっていて。半分は畳の間より低くなっており、砂がまかれています。恐らく砂がまかれている部分で、槍術の稽古をして、畳の間に師範や他の生徒たちがいたのではと推測されます。

文久2(1862)年1月14日に坂本龍馬が萩を訪れ、滞在中ここで剣術の試合をしたといわれています。そう思うとワクワクしますね・・。

平成26年10月11日より一般公開されています。入館無料。常駐ガイドさんもおられます。年中無休で、9時から17時まで。是非、足をお運びくださいね!

旧藩校明倫館内の国指定史跡の数々・・

旧藩校明倫館内の国指定史跡の数々・・

写真:村井 マヤ

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写真は、現在、旧明倫館小学校本館の前に並んで設置されている「明倫館碑」です。

国指定史跡で、左側が6代藩主宗広公が創立の由来を伝えるために建てたもの。右側は、13代藩主敬親が新明倫館の開校を記念し、藩主が、10代明倫館学頭山県太華に「重建明倫館記」を撰ばせて建てたもの。この碑をよく見ると、文字が削られています。 削り取られた文字は、「幕命而」という字です。「幕命を崇奉して国家の蕃屏たる所以なり」と読めるところ。「幕府の命令をよくきいて国を守る」 という意味なんだとか。明倫館で洋学や国学を学び、幕府の政治に不満をもった学生たちが「幕府の命令」という部分を削ったそうです。明倫館に立ち寄られたら、じっくり見てみましょう!

その他の史跡としては、「水練池」やその前にある「聖賢堂」なども是非見て下さいね。水練池は、幕政時代には遊泳術や水中騎馬などが行われたそうです。水源は地下水で、周囲は玄武岩の切石で築かれ、東西39.5m、南北15.5m、深さは1.5m。現在は、東側と南側に池に降りる石段がありますが、当時は、東側の中央から騎馬で池に降りやすいように斜面になっていたようです。藩校の水練池で現存するのはここだけ。

聖賢堂は、水練池の前に位置していますが、江戸時代には聖廟前、観徳門の左右にあった西塾・東塾の遺構です。両塾を合わせて1棟として東田町の阿呼社の境内に移築されていましたが、大正7年に現在の位置へ。

公式行事の折にしか開かれない、明倫館の正門・南門へ

公式行事の折にしか開かれない、明倫館の正門・南門へ

写真:村井 マヤ

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藩校の門ってこんなに立派なんでしょうか・・。実際行かれたらその貫録が伝わりますよ。

明倫館の正門として、弘化5(1848)年に建立。明倫館全体から見て南にあたるので南門と名付けられましたが、通称は表御門。
切妻造り、本瓦葺の四脚門です。蟇股(かえるまた:梁や頭貫上にあって上の荷重を支える材)の鳳凰円紋の彫刻は、奈良法隆寺宝物の螺鈿唐櫃の円紋を倣ったとのこと。藩主が聖廟を拝む春秋の孔子祭や公式行事以外は開かれない門だったようです。

明治15(1882)年、西田町本願寺山口別院に移され正門になっていましたが、平成15年に寄付を受け122年ぶりに建築当初の場所へ。

堂々とした佇まいに、感動を覚えます。萩の藩士たちは、この明倫館に通うことを誇りに思ったでしょうね。

文と萩物語 花燃ゆ大河ドラマ館へも

旧藩校明倫館は、ある意味藩士たちが夢を抱いて通った場所。その後は萩市の子供たちが通った学び舎。夢や希望などを抱いていた場所です。そんな場所で是非、元気をもらいたいもの。

また、この明倫小学校の敷地に、平成27年NHK大河ドラマ「花燃ゆ」のドラマ館が、平成27年1月11日より平成28年1月10日まで開館します。

大河ドラマの世界観を体感できる施設なんだそうです。開館が楽しみですよね。このドラマ館は、旧明倫小学校本館とグラウンドの間くらいに位置しています。是非お出かけ下さいね。
「花燃ゆ」のロケ地等は、下記MEMO「大河ドラマ「花燃ゆ」ロケ地とゆかりの地を巡る萩の旅♪」に詳しくご紹介しています。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/10/26 訪問

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