写真:やま かづ
地図を見る太平洋戦争当時、旧日本軍司令部が全滅した地、又木山山麓は、グアムの中心地タモンの北東の町、ジーゴにあります。
「南太平洋戦没者慰霊公苑(グアム平和慰霊公苑)」は1995年から5年という長い年月をかけて、日米両国の友好と世界平和へ願いを込めてつくられました。苑内には「平和寺」と高さ15メートルの白い慰霊塔が建てられており、その地下部分には納骨堂があります。
なお、この慰霊塔は、平和への願いを込め合掌する手がモチーフになっています。
写真:やま かづ
地図を見る慰霊塔の手前右手の石段を下りていくと、うっそうとしたジャングルの少し開けた広場に行き当たりますが、そこには幾つかの洞窟があります。それらは、旧日本軍最後の司令部となった又木山戦斗司令部壕跡で、旧日本軍最後の司令官となった小畑中尉が60名余りの将兵とともに自決した場所です。
今でも、絶えることなくお花や日本酒が備えられています。
写真:やま かづ
地図を見るパセオ公園の敷地内、チャモロビレッジの西側の海岸に1つの四角いコンクリート造りの建造物が、無機質ながらも、あたりの風景に同化するように残されています。
これは、ハガニア湾から上陸するアメリカ軍を迎え撃つために旧日本軍が建てたトーチカ(防御用射撃陣地)で、海側には2カ所の銃眼と呼ばれる小窓が、陸地側には1カ所の小さな出入口があります。
かつて、日本軍はグアムのことを「大宮島」と名づけ、アメリカ軍の攻撃を迎え撃つために海岸線沿いに無数のトーチカを建設しましたが、そのうちの一つがこのパセオ公園にあるトーチカです。
写真:やま かづ
地図を見るラッテストーン公園の南側に日本統治地時代の防空壕跡があります。太平洋戦争中に旧日本兵によって強制労働を課されたチャモロ人は、粗末な道具だけを渡され、劣悪な環境の中、掘削作業に動員されました。
この防空壕は、旧日本軍の陣地として、あるいは弾薬庫としても使われましたが、その形跡は「防空壕」と刻まれているものを見ればわかります。また、終戦後は、アメリカ軍の核兵器の貯蔵施設としても再利用され、冷戦が終結するまで使われ続けました。
現在は一般に開放され、誰でも中に入ることができます。公園側に3カ所の出入口がありますが、壕の中でつながっており、行き来できるようになっています。
写真:やま かづ
地図を見るアサンの海岸は、グアムの中心地から約4キロメートル離れています。戦時中は、何千ものアメリカ海軍が水際からの上陸を試み、旧日本軍の守備隊と激しい戦闘を繰り広げ、両軍に多数の死傷者が出た地として歴史に刻まれています。
現在は、緑の芝生と一直線に植えられたヤシの木が美しい「太平洋戦争国立歴史公園」として整備されており、当時の凄惨な様子をみじんも感じ取ることができません。
しかし、公園入口正面に設置されている米軍の魚雷とともにアサンの激しい戦闘の歴史を解説した説明プレートを見ると、当時の壮絶な争いの様を少しだけ想像することができます。
また、海岸線近くにはアメリカ海軍の慰霊碑も建てられています。
写真:やま かづ
地図を見るニミッツ・ビーチパークのガアン岬にはガアン・ポイントビーチパークがあり、ここもまた「太平洋戦争国立歴史公園」の一つとして整備されています。
写真:やま かづ
地図を見るガアン岬は、太平洋戦争中、アサンの海岸と同じく日米両軍が激しい戦闘を繰り広げた場所です。海岸には今でも旧日本軍の大砲、25ミリ砲と200ミリ砲の2門が、グアム戦線の犠牲となった人々を追悼する記念碑的な意味合いで残されています。
太平洋戦争では、たくさんの日本人、アメリカ人が亡くなりました。そしてまた、グアムの原住民であったチャモロの人々も戦禍に巻き込まれました。
そんなたくさんの先人の犠牲の上に現在の平和があることに感謝し、常夏のグアムを満喫するのも大変意義のあることだと思いませんか?
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(2024/12/5更新)
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