写真:乾口 達司
地図を見る国の史跡にも指定されている楯築遺跡(たてつきいせき)は弥生時代後期の墳丘墓。別名、楯築弥生墳丘墓とも呼ばれています。その全長は72メートル。直径約50メートルの円墳の両端に方形の突出部をつけた双方中円墳という特異な形状をしており、その規模は日本最大級を誇ります。
発掘調査の結果、2ケ所の埋葬施設が確認されました。そのうち、中央部の地下1.5メートル付近に埋葬されていた人物が当遺跡の主であると考えられています。被葬者は全長約2メートル、全幅約0.7メートルの細長い木棺におさめられており、その底には大量の朱(水銀)が敷かれていたとのこと。ほかにも、埴輪の源流ともされる特殊器台などの土器も出土しており、楯築遺跡が、その後、全国各地で築かれる古墳に強い影響を与えた遺跡であることがうかがえます。
注目したいのは、遺跡の墳頂部。巨大な立石が埋葬施設をとりかこむようにして円形に配置されています。その様子はさながら世界各地で見られるストーンサークルを思い起こさせますが、これほどの規模のものは国内には類例がなく、その点からも楯築遺跡の特異性が見て取れます。ちなみに地元では、大和朝廷から覇権された吉備津彦命が当地の支配者・温羅との戦いにそなえて石の楯を築いた地こそ、ここ、楯築遺跡であると伝わっています。その巨大な立石から連想された伝承でしょう。
写真:乾口 達司
地図を見る巨大な立石のほか、比較的、小さな石も配置されています。その形もさまざま。中央がくぼんだ一番手前の石などは、茶碗などの底の部分を連想させませんか?船を連想する人もいるかも知れません。それぞれの石にどのような意味がこめられているのか、いまもわかっていないだけに興味が尽きませんね。
写真:乾口 達司
地図を見るしかし、巨石が見られるのは、何も墳頂部にだけ限りません。墳丘の斜面をぐるりとめぐると、斜面のあちらこちらで立石が地面から突き出しているのがうかがえるでしょう。ほかにも、小さな石をぐるりととりかこむようにして配置した痕跡(円礫帯)も見られます。墳頂部にだけ目を奪われず、斜面も散策してみましょう。
写真:乾口 達司
地図を見る墳頂部に配置された巨石を見ていくと、ご覧のような小さな石の祠を見かけることでしょう。これは楯築神社と呼ばれている社。いつの時代からまつられてきたかは不明ですが、古くより地元の人々が楯築遺跡を神聖な地と見なされてきた証であるといえるでしょう。祠のなかにはかつて亀石と呼ばれる石の御神体がまつられていました。御神体が石であるということからも、ストーンサークル状の特異な形状を見せる楯築遺跡の特徴が指し示されていると思いませんか?
写真:乾口 達司
地図を見るでは、亀石は、現在、どこにまつられているのでしょうか。当地を訪れたら、墳丘の脇に小さなコンクリート製の収蔵庫が立っていることに気がつくでしょう。その際、その壁面に空けられた小さな覗き窓から内部をご覧ください。亀石はその内部に安置されているのです。
注目していただきたいのは、表面に帯を巻きつけたような奇怪な文様(弧帯文)が刻まれている点。その独特の形状から考古学上は「施帯文石」と呼ばれ、現在、国の重要文化財に指定されています。しかも、この亀石、覗き穴からは壁面しか観察することができませんが、実は正面には人の顔らしきものまで刻まれているのです!表面に刻まれた文様や人面にどのような意味があるのか、現在でも定説はありませんが、弥生時代の人々がこの石を神聖なものと見なしてきたことだけは間違いありません。見るものの想像力を掻き立てる不思議な石ですね。
弥生時代の遺跡は全国各地で発見されていますが、楯築遺跡がそのなかでもきわめて重要な位置を占めていることが、おわかりになったのではないでしょうか。弥生時代後期、楯築遺跡を築いた勢力がやがてどのように発展していったか、そして、それが後に巨大古墳を次々に築造していった古代吉備王国とどう関わるのか、まだまだ謎に満ちています。しかし、そうであるからこそ、その謎に迫るためにも楯築遺跡に足を運び、弥生時代の当地に思いを馳せてみてください。
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(2024/10/16更新)
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