ドイツのハブ国際空港であるフランクフルトからスイス方面へアウトバーンを走り、1時間半程でザールランドに着きます。フランスやルクセンブルグと国境をなし、何度もの戦争でドイツとフランスの間で揺れ動いた地方ですが、今では平和で素朴な田舎の風景を持ちます。
その中で堂々と存在感を示すフォルクリンゲン製鉄所は、石炭や鉄鉱石が豊富だったザールランドの製鉄産業の繁栄や衰退と共にありました。
フォルクリンゲン製鉄所は1873年に作られました。
当初は営業がうまくいきませんでした。しかし1881年にカールレヒリングが休止していた施設を買い取り450人の従業員と共に溶鉱炉を再稼働させるやいなや、瞬く間に設備は増築され、2年後には従業員は1150人に増やされ、トーマス転炉の採用などにより鉄鋼所の最盛期への道を歩み始めます。カールレヒリングは今でも一生を鉄鋼技術にかけたエンジニアであったと言われています。
第一次大戦そして第二次大戦に及んでは武器の需要が増えたのに合わせて製鉄所の稼動量は更に増えていきました。労働力がついていかなかったので、トルコ、イタリア、旧東欧の諸外国から出稼ぎの労働者若しくは強制的に連れてこられた労働者が増えました。
戦後には復興や再建設の波に乗り、1950年から1960年にかけては、史上に残る鉄の黄金時代を迎えました。こうしてフォルクリンゲン製鉄所は世界に名を残す、世界で最も繁栄した製鉄所となったのです。
フォルクリンゲン製鉄所の黄金時代にもピリオドが打たれる時が来ました。それは、1975年の鉄鋼危機でした。
ドイツ、英国、フランス、オーストリア、アメリカなど世界の鉄鋼産業の先頭に立っていた国々での過剰生産や鉄鋼産業に加担する国々の続々な出現などによりフォルクリンゲン製鉄所の需要が減退し、別の製鉄所と合併することになりました。こうして昼も夜も祭日もなく動き続けていた製鉄所は、1986年をもって一切停止しました。
皮肉なようですが、この静寂に慣れていない住民たちは、ゆっくり眠れるようになるまで随分時間が必要だったと言います。
フォルクリンゲン製鉄所の敷地面積は6ヘクタール以上ありサッカー場の100倍ほどにもなります。町中が製鉄所と生きていたと言っても過言では無いので、製鉄所が休止した瞬間には町全体が止まってしまったとも形容できます。
完全に停止したフォルクリンゲン製鉄所がユネスコによって1994年に世界文化遺産に登録されました。
その理由として挙げられるのは、全ての機材の保存状態が極めていいこと、転炉や焼結炉そして真空熱処理炉など製鉄所で使用されていた炉が当時の技術の先端を行っていたことなどです。
第二次大戦時に大方のドイツ内の製鉄所が爆撃で崩壊した中で、フォルクリンゲン製鉄所がほぼ無傷で残ったというところから、奇跡があったもしくは神のご加護があったなどと言われています。
最盛時には1万7千人の従業員を抱えた戦後の復興を支えてきた鉄鋼産業の証が、ユネスコの援助によってこれからも見て語り継がれるために博物館に姿を変えました。製鉄所の敷地内では、美術展やコンサートなどの催しが定期的に開かれています。
フォルクリンゲン製鉄所から車を30分程走らせると、2014年に亡くなった狼と共に生きたヴェルナーフロイントさんが創設された狼の公園(WolfsparkもしくはWolfsgehege)、世界三大陶磁器メーカービレロイボッホ(Villeroy und Boch)の工場と博物館そして自然景勝地として有名なザールシュライフェ(Saarschleife)などの見所があります。
ザールランドではドイツらしからず、ワインが頻繁に飲まれます。食文化や習慣そして言葉にはフランス文化の影響が多分にあることがうかがえます。
静かに流れるザール川はフランスのボージュ山脈から発しモーゼル川に流れ込んでいますが、産業の黄金時代には運河として大活躍し、ザールランド地方の鉄や陶器を世界中に運んでいました。更に、ザール川沿いは白ワインの有名な産地でもあります。
激動の歴史を静かに見つめてきたザール川、そして川の近くに立つ世界で最も繁栄した製鉄所を是非見に行きませんか。
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