大河ドラマ『八重の桜』ゆかりの地をご紹介〜会津若松市「阿弥陀寺」「大龍寺」〜

大河ドラマ『八重の桜』ゆかりの地をご紹介〜会津若松市「阿弥陀寺」「大龍寺」〜

更新日:2013/01/18 18:23

2013年1月から放送のNHK大河ドラマ『八重の桜』みなさんもうご覧になられましたか?「ならぬことはならぬものです」という「什(じゅう)の掟」の教えのもとに凛々しく日本の幕末を生き抜いた新島八重。新島襄の名前は知っていても、その妻・新島八重の生涯や生き様について大河ドラマではじめて詳しく知る方が多いのではないかなと思います。きょうはその『八重の桜』新島八重のふるさと、ゆかりの地をナビゲートします。

『八重の桜』新島八重と幕末会津

『八重の桜』新島八重と幕末会津

提供元:会津若松市役所

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この「幕末のジャンヌダルク」の一生を描く大河ドラマ『八重の桜』は、主演・綾瀬はるかさんはじめ、会津藩の家老・西郷頼母を演じるのが西田敏行さん(福島県出身)、八重の兄・山本覚馬(かくま)を西島秀俊さん、八重のライバル・中野竹子を黒木メイサさん、八重の幼なじみ・日向ユキを剛力彩芽さんなどで配役した豪華な顔触れの大河ドラマとなっています。

会津藩最後の藩主9代目「松平容保」公(キャスト:綾野剛さん)は、京都守護職を命じられた際に就任を断り続けてきましたが、会津藩祖・保科正之公が記した『会津家訓十五箇条』の第一条「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」を持ち出されたことで忠義心に火が付いてしまい、周囲の反対を押切り京都守護職を拝命する決意をします。

※その後京都守護職に就任した容保は、京都において配下の新撰組(直属の下請け組織)と不逞浪士や尊攘派を取り締まりました。それから多くの新撰組の隊士が戊辰戦争へと宿命的に関わるようになります。

会津若松と戊辰戦争〜七日町・阿弥陀寺〜

会津若松と戊辰戦争〜七日町・阿弥陀寺〜
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本来ならば、新島八重の生誕の地や当時の会津藩の現存する名所をたくさん見ていただきたいところなのですが、ご存じの通り戊辰戦争により会津藩の城下町は焼き尽くされ、会津若松城(鶴ヶ城)は明治政府から命を受け、取壊され払下げられました。
※生き残った武士達と家族約1万3000人は恐山山麓一帯(現在の青森県下北半島のむつ市)に強制移住を強いられました。

鶴ヶ城の遺構として唯一残る貴重な建物「御三階(ごさんがい)」と、戊辰戦争で戦死した1300名の遺骨が埋葬された戦没者の墓は、同じ場所「阿弥陀寺」に今もひっそり佇んでいます。

戊辰戦争最後の籠城戦で、八重が戦死した弟・三郎の形見の着物と袴を身に着け、七連発のスペンサー銃を肩にかついで入城し、会津藩の武士として諦めずに戦う「幕末のジャンヌダルク」の姿に思いを馳せながら、会津藩の「武士道精神」を少しでも感じて頂ければと思います。


※新撰組三番隊長、斉藤一(キャスト:降谷建志さん)の墓も同寺にあります。

御三階は、外観は3階建にみえますが、内部は4層になっており、2階と3階の間に天井の低い部屋があります。3階に上るはしごは、用のない者が上れないように上から引き上げる仕組みとなっていて、当時は密議所に使用されていたといわれています。

山本家の先祖が眠る場所〜大龍寺〜

山本家の先祖が眠る場所〜大龍寺〜
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次にご紹介するのは、会津若松市慶山にある「新島八重」のゆかりの地、山本家(新島八重の旧姓)の先祖が眠る寺「大龍寺」です。
大龍寺は、保科正之公が会津に開創(1643)した“お供寺”のひとつで、戊辰戦争時は新政府軍の野戦病院としても利用された場所です。
「幽霊の足跡」がある寺として修学旅行生に大人気の場所なのですが、新島八重の親族が眠る「山本家の墓」が建立されているとは地元の方でもなかなか知られていないんですよ。

※幽霊の足跡、どんなのでしょう?気になる方は是非現地でお確かめください!!

※付近には、戊辰戦争で怪我をした藩士たちが傷を癒した湯治湯、東山温泉もありますので是非足をお運び下さい。

また庭園は、京都の高尾嵐山からもみじを移し「大龍寺のかえで」として造園されました。会津若松にある名庭園「御薬園」の試作庭園として、元禄の園匠、目黒浄定氏を招き作庭した風情ある庭です。

冬の今の季節は、雪景色に変わり一段と美しい姿を見せますよ。

新島八重の晩年と会津藩山本家の菩提寺

新島八重の晩年と会津藩山本家の菩提寺
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八重は晩年、京都で過ごしていましたが、自身が亡くなる1年前に「山本家」の菩提寺大龍寺を訪れ、それまでバラバラであった家族(戊辰戦争で戦死した弟三郎や高祖父含む6人)の遺骨をひとつにまとめ「山本家之墓」を建立します。

この墓標には「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七才」と刻まれており、八重自身が書いたと言われています。

「ふるさとわすれがたく老いぬれど 又も越えなむ白川の関のとざしはよしかたくとも」という晩年の歌にもあるように、八重は戊辰戦争で会津藩が降伏したその日から、故郷を追われ兄覚馬を頼り京都へ移住するも「会津人」としての思いを持ち続け、いつかは故郷に帰りたいと心の底から思っていたことが伺える、気持ちの伝わる一句だと思います。


「会津人」として生きた「幕末のジャンヌダルク」、新島八重の生涯をドラマを通して会津の歴史背景や美しい風景をご覧いただけたら大変うれしく思います!


※また、この大龍寺には「戊辰戦争殉難殉節供養塔」、長野県の松本城城主「小笠原長時」の墓、映画『天地明察』にも登場した会津の算学者「安藤有益」の墓もあり、会津の霊場として名高い寺のひとつとなっています。

※会津藩の砲術師範師として活躍した父、山本権八の墓は会津若松市一ノ堰近くの光明寺境内に、新島八重と兄覚馬の墓は、京都府の若王子墓地にあります。

大龍寺
福島県会津若松市慶山2丁目7−23

掲載内容は執筆時点のものです。 2013/01/06 訪問

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