写真:乾口 達司
地図を見る平野郷にいつ、環濠や土塁が設けられたか、はっきりしたことはわかっていません。しかし、中世以降、平野郷が交通の要衝としての地位を確立するにともない、外敵の侵入を防ぐなどの目的から環濠都市化が推し進められたものと考えられます。
環濠と土塁をめぐらせた平野郷には13箇所の出入口(平野郷十三口)が存在しました。それぞれには門が設けられ、そこから放射状に各地へ街道がのびていました。現在、その跡地には地蔵堂が設けられています。
写真は郷の東側に位置する「樋尻口地蔵」です。
<樋尻口地蔵の基本情報>
住所:大阪市平野区平野東2-11-3
アクセス:JR平野駅より徒歩約15分
写真:乾口 達司
地図を見るこちらは北西側に位置する「馬場口地蔵」。馬場口は奈良街道の大坂・天王寺方面に接続する重要拠点でした。
樋尻口地蔵から馬場口地蔵までは、複雑に入り組んだ街中を歩くこと、約15分。その所要時間からも、平野郷が私たちの想像をはるかに超える広大な環濠都市であったことがうかがえます。
写真:乾口 達司
地図を見る地蔵堂には、当時の平野郷の規模を示した図版が掲示されています。平野郷を散策するものにとっては有難い配慮ですね。
<馬場口地蔵の基本情報>
住所:大阪市平野区平野上町1-5-27
アクセス:JR平野駅より徒歩約5分
写真:乾口 達司
地図を見る平野郷をとりかこんでいた環濠の多くは、近代以降の都市化の波に抗えず、姿を消していきました。しかし、そのすべてが失われたかといえば、決してそうではありません。
たとえば、平野郷の北端に位置する「杭全神社(くまたじんじゃ)」の東側には、環濠や土塁の名残りが見られます。境内の南側に残る池も環濠の名残り。当時の様子をしのぶことができます。
写真:乾口 達司
地図を見る留意したいのは、環濠に沿って平野川が流れていることです。すなわち、平野郷は環濠と河川によって二重に守られた都市なのです。
しかし、河川は何も自衛の手段としてのみ利用されていたわけではないでしょう。河川は当時の有力な交通手段でもあったため、河川を媒介にしてなされた交易は平野郷に莫大な富をもたらし、繁栄の源泉ともなっていたのです。
杭全神社の周辺を散策して、当時の平野郷の繁栄に思いを馳せてください。
写真:乾口 達司
地図を見る杭全神社は平野郷の総鎮守というべき古社。862年(貞観4)に創建されました。2社の春日造、1社の流造から成る3殿の本殿はいずれも国の重要文化財であり、そこからも杭全神社を有する平野郷の歴史的な豊かさがしのばれます。
写真:乾口 達司
地図を見る注目していただきたいのは、社務所に隣接する連歌所。連歌所が現存するのは、全国でも杭全神社だけなのです。
中世に大成した連歌は複数の作者によって作りあげられる集団制作の文芸形式。伝統的な和歌が宮廷や知識階級をその担い手としていたのに対して、複数の作者が寄り集い、作品を制作する連歌は次第に町民をはじめとする庶民の文芸として受け入れられ、江戸時代になると俳諧を生み出すにいたりました。
長年、外部の政治勢力からの干渉を受けずに自治をおこなってきた平野郷では、どういった身分の人たちが行政の担い手であったか、連歌一つをとってみてもおわかりいただけるでしょう。
<杭全神社の基本情報>
住所:大阪市平野区平野宮町2-1
アクセス:JR平野駅より徒歩約5分
写真:乾口 達司
地図を見る杭全神社が神道における平野郷の代表的な古社であるならば、仏教側の代表格としては、郷の北西に位置する「大念佛寺(だいねんぶつじ)」の名を挙げることができます。
大念佛寺の創建は1127年(大治2)。四天王寺にて聖徳太子から夢のお告げを受けた良忍上人が、鳥羽上皇の勅願により、創建したのがはじまりとされています。1938年(昭和13)に再建され、現在、国の登録有形文化財となっている本堂の規模は大阪府下最大。その大きさに圧倒される人も多いでしょう。
<大念佛寺の基本情報>
住所:大阪市平野区平野上町仏1-7-26
アクセス:JR平野駅より徒歩約5分
写真:乾口 達司
地図を見るしかし、そもそも、大阪有数の巨大環濠都市へと成長した平野郷は、どのようにしてはじまったのでしょうか。その起源となる人物のお墓が坂上公園にあります。蝦夷征伐で知られる平安初期の武将・坂上田村麻呂の子息・坂上広野(広野麿)の墳墓です。
広野は当地を開発した領主であり、それにちなみ、当初の呼び名であった「広野」が訛って「平野」になったと考えられています。広野の子孫は七つの名家に分かれ、その後、平野郷をおさめていきます。
<坂上広野麿の墓の基本情報>
住所:大阪市平野区平野市町1-8(坂上公園内)
アクセス:JR平野駅より徒歩約10分
写真:乾口 達司
地図を見る広野の娘・春子は桓武天皇の妃となり、葛井親王などを生みました。桓武天皇の崩御後は平野郷に移り住み、長寶寺を開いています。
現在、春子の墓は杭全神社に隣接する長寶寺の墓所に残されています。
<坂上春子の墓の基本情報>
住所:大阪市平野区平野宮町2-1(長寶寺墓所内)
アクセス:JR平野駅より徒歩約5分
写真:乾口 達司
地図を見る民間の学問所「含翠堂(がんすいどう)」は、1717年(享保2)、平野郷の土橋友直によって発案・創設されました。この土橋友直も広野の子孫に当たります。
<含翠堂跡の基本情報>
住所:大阪市平野区平野宮町2-9
アクセス:JR平野駅より徒歩約10分
写真:乾口 達司
地図を見る平野郷に隣接する旧正覚寺村(現在の加美正覚寺)には、応仁の乱勃発のきっかけを作った守護大名・畠山政長の墓所があります。
応仁の乱終息後の1493年(明応2)、政長は室町幕府10代将軍・足利義材(義稙)とともに出陣し、敵対する畠山義豊を攻撃しました。しかし、細川政元が都で謀反を起こすと逆に幕府軍に追討される立場となり、当地で自害。義材もまた将軍の座を追われました。「正覚寺合戦」です。
正覚寺合戦の現場は、平野郷からわずか数百メートルのところ。平野郷の人たちは自分たちが環濠と土塁によって守られていることに強く安堵したことでしょう。
<畠山政長の墓の基本情報>
住所:大阪市平野区加美正覚寺2-6-37
アクセス:JR平野駅より徒歩約10分
平野郷がいかに豊かな歴史を有する環濠都市であったか、おわかりいただけたでしょうか。ほかにも、幕末の動乱期、倒幕の旗を掲げた天誅組の主要メンバー・中山忠伊が追っ手を逃れて隠れ住み、自刃したことを指し示す石碑も満願寺門前にあり、幕末マニアにとっても必見のスポット。当地を訪れ、環濠都市として繁栄をきわめて平野郷の歴史的な魅力をご堪能ください。
2023年5月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2024/10/10更新)
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