写真:古都の U助
地図を見る紫雲山金戒光明寺は、幕末の政情不安な時期、京都の治安維持の為に京都守護職本陣が置かれたところです。
任命されたのは会津藩主松平容保公。1年交代で1千名の藩士らを配したといわれています。
この會津藩殉難者墓所の碑は金戒光明寺の西側、高麗門の前にありますが、高麗門は鉄で表面が覆われ、城の門構えとなっています。
小高い丘になっているこの地は自然の要衝であり、徳川家康によって京都の守りのため寺でありながら石垣が配されるなど、城の構えとされたと伝わります。
境内には禁門の変、鳥羽伏見の合戦などで命を落とした352名の会津藩士らの墓もあります。
松平容保公が入洛したのは文久2年12月、鳥羽伏見の合戦は慶応4年の1月だったそうですから、冬にお参りに来ていただくと、よりいっそう感慨深くなると思います。
写真:古都の U助
地図を見る見晴らしもよく京都の重要地点にも移動が容易い金戒光明寺は、京都御所や京都守護職御預かりとなった新撰組の壬生の屯所との間でも、幕末当時は毎日のように報告伝達が行われていたそうです。
山門までは少々石段がありますが、山門をくぐり御影堂の前など境内からは京都の市内の景色を見渡すことができ、特に平安神宮の大鳥居、京都タワーなどは必見です。(写真では右隅に平安神宮の大鳥居)
冬場の空気の澄んだ日は、なんと大阪あべのハルカスまで確認できる事もあるそうです。
例年秋期特別拝観の時に山門楼上に上がることができ、その際はさらなる絶景がお楽しみいただけます。
金戒光明寺の山門は、最初1400年頃建てられましたが応仁の乱に巻き込まれ消失し、現在のものは万延元年(1860年)に完成したものです。間口は約15メートル、高さは約23メートルという大きな門です。
写真:古都の U助
地図を見る鐘楼周辺もやはり眺めが素晴らしく、とくに西山連邦に注目していただきたいと思います。
かつて境内から西南には天王山や淀川がよく見渡せ、西からくる敵に備える事ができたといいます。
また、夕焼け時は目も眩むほど美しく、会津藩士らの墓所もほとんどが西向き、つまり西方浄土に向けて作られています。
金戒光明寺の鐘楼は、除夜の鐘も有名で、例年大晦日の23時頃から整理券(無料)が配布されます。
写真:古都の U助
地図を見る金戒光明寺は承安5年(1175年)法然上人が比叡山の黒谷を下り、草庵を営まれた土地で、浄土宗最初の寺院です。
法然上人75才の座像を奉安する御影堂の横には、鎧掛けの松があります。
1184年の一の谷の合戦で、我が子と同じような年端もいかない平敦盛の首を討ち取り、世の無常を感じた熊谷次郎直実は、法然上人を尋ね、鎧を脱ぎ捨てこの地の松に打ち掛けたと伝わります。
現在見ていただける松は3代目のもので、高さ約2・5メートル、樹齢30年程のクロマツです。
2代目の松は残念ながら2013年夏頃から枯れ始め、やむなく伐採、2014年3月に3代目の植樹とお魂入れの儀式がおこなわれています。
写真:古都の U助
地図を見るメインの境内から少し東側にある三重塔もぜひお見逃し無くご覧いただきたいと思います。
冬場は雪などであまりすべるような状態なら、無理せず階段下から見上げるだけでも見ごたえがあります。この三重塔は徳川2代将軍秀忠公の供養の為建てられたもので、本尊とされていた文殊菩薩は現在御影堂の中に安置されています。
また、金戒光明寺の墓所には秀忠の正妻・崇源院の供養塔と、彼女の次男であり長男の家光との将軍世継ぎ争いに敗れた忠長の供養塔もあります。またそこからさほど離れていない場所に春日局供養塔もあり、金戒光明寺は初期大奥の歴史を伝える場所でもあります。
比較的人が少ない冬の京都は、ゆっくりお目当ての寺社を拝観するまたとないチャンスです。
特別拝観などは一部料金が発生しますが、金戒光明寺の境内自体は無料で見学することができてしまいます。
また、北側お隣の真如堂は徒歩で移動して5分少々の道のりです。
別記事『京都は冬こそ訪れたい!南天も素敵な雪の花咲く真如堂』で冬の真如堂の紹介もさせていただいております。MEMO欄からぜひ参考にしてみて下さい。
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(2024/9/18更新)
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