写真:塚本 隆司
地図を見るJR長浜駅の東口からバス停へと向かう途中、「秀吉公と石田三成公 出逢いの像」が目にはいるだろう。ここ長浜は、秀吉出世の地であると共にそれを支えた石田三成を敬愛していることがうかがえる。
石田三成の出生地へは、湖国バス・近江長岡行に乗り20分。「石田」バス停を下車。「出逢いの広場」とも呼ばれるバス停で「石田治部少輔三成屋敷跡」の石碑がある。
近くにある「石田三成 産湯の井戸」は、2000年の「石田三成公四百年祭記念事業」で復元された。石田家は、ここに土着した地侍でいわば「村の武士」だった。
バス停から南へ3分ほど歩くと、出生地でもある石田家屋敷跡と石田会館がある。
このあたりには、三成が生まれた頃の石田家屋敷があり、周囲に堀を構えた大きなものだったとか。現在も堀の一部と思われる遺構があり、「治部池(堀端)」と呼ばれる池が残っている。
ここにも三成像が出生地の碑と共にある。第一線で武将として、また官吏として活躍していた頃の姿であろうか。凛とした威厳のようなものが感じられる。
写真:塚本 隆司
地図を見る写真:塚本 隆司
地図を見る石田屋敷跡に隣接する「石田会館」は、石田三成資料館となっており三成ゆかりの品々やパネル展示がされている。うれしいことに入場料は無料だ。ただ、不定休なので事前にチェックしておく方がよいだろう。
資料室には、三成の頭蓋骨写真が展示されている。三成の墓は京都の大徳寺三玄院にあるが、これを改葬した際に小柄(小刀の柄の部分)一本でつながれたと思われる首と胴の骨が発見されたそうだ。その写真が展示されている。
さらに、この頭蓋骨の計測値と写真を元に復元された三成の復顔像写真までもが展示されているのだ。復顔をみてどう感じるかは個人の判断に任せるとして、数々のドラマで発せられた言葉を想像しながら三成と対面するのもいいだろう。
写真:塚本 隆司
地図を見る石田屋敷跡の東に石田家の氏神といわれる「八幡神社」がある。
昭和16年、神社の裏の苔むした盛土から打ち壊された墓石や五輪塔が発見される。これが石田家の墓で、関ヶ原の後破壊され埋められていたようだ(村人が隠したという説もある)。
この場所は「触ると腹が痛くなる」と伝えられ、誰も近寄らないようにしていたという。徳川時代には宗門改めがあり「石田残党これなく候」と井伊藩に誓約をしなければならないことも考えれば、近寄らない方がよかったのだろう。
現在は供養塔が建立され、出土した墓石も改葬されている。毎年11月には石田家ゆかりの方々や歴史ファンが参列しての慰霊法要や石田会館や特設会場を舞台とした「石田三成祭」が行われている。
武将感状記(熊沢猪太郎、1716)など多くの文献に書かれている、秀吉と三成の出逢いとなる逸話「三献茶」。
鷹狩りの帰り秀吉は、喉の渇きから立ち寄ったある寺に茶を求める。寺の小性であった佐吉(後の三成)が、ぬるめの茶を大きな茶碗でもってきた。もう一杯求めると、今度は少し熱めの茶を茶碗半分足らずで持ってくる。うまいと飲み干しもう一杯求めると、今度は小さな茶碗に熱い茶だった。この気働きに感じ入り住持に乞い近習とした。
これが「三椀三温」とも呼ばれる「三献茶」の話である。
その舞台ともいわれるのが大原観音寺(滋賀県米原市)。寺内には「三成水汲みの井戸」が残っている。観音寺略縁起によると、盛時には寺坊が二十三坊あったという。現在は二坊を残すのみとなっているが、参道の両脇に広がる台地が当時を偲ばせてくれる。
大原観音寺へバスで行くならば観音寺前バス停があるが、石田バス停と同じ路線で便数も少ないので、事前に調べておくことをおすすめしたい。
徒歩で行くのであれば、石田屋敷からは30分ほどの距離、観音寺トンネルを越えてすぐのところにある。天気がよければ伊吹山が綺麗に見えるはずだ。途中には、三成を慕う村人がひそかに手を合わせたという石田地蔵がある。
写真:塚本 隆司
地図を見るこの町を歩くと三成にまつわるものばかりが目につく。島左近をはじめ三成ゆかりの武将名を配した街灯が14本あり、秀吉にお茶を献じる佐吉少年(後の三成公)の姿がデザインされている。石田のバス停前の酒屋には、その名も「石田三成」という日本酒が売られている。
今も地元に愛され、多くのファンをもつ石田三成。出生地を巡るとグッと身近に感じることができるだろう。
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(2023/12/7更新)
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