ほうふ花燃ゆ大河ドラマ館「文の防府日和。」から巡る防府の旅

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ほうふ花燃ゆ大河ドラマ館「文の防府日和。」から巡る防府の旅

ほうふ花燃ゆ大河ドラマ館「文の防府日和。」から巡る防府の旅

更新日:2015/01/28 10:46

村井 マヤのプロフィール写真 村井 マヤ 中国・九州文化的街並探検家

山口県防府市には、日本で最初の天満宮である防府天満宮や天平時代の周防国分寺などの史跡、また英雲荘など幕末の志士ゆかりの場所もあります。今回は、NHK大河ドラマ『花燃ゆ』のヒロイン杉文こと楫取美和子と楫取素彦の終焉の地として注目の、防府市をご案内します。期間限定のドラマ館から、楫取夫妻のお墓や、幕末の志士高杉晋作と関係の深い野村望東尼の宅地跡やお墓まで、文ゆかりの地を巡る防府小旅行へ出かけましょう♪

ほうふ花燃ゆ大河ドラマ館「文の防府日和。」でドラマ衣装も見学

ほうふ花燃ゆ大河ドラマ館「文の防府日和。」でドラマ衣装も見学

写真:村井 マヤ

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平成27年のNHK大河ドラマ『花燃ゆ』のドラマ館として平成27年1月11日(日)から一年間の期間限定で開館した、ほうふ花燃ゆ大河ドラマ館「文の防府日和。」。防府駅前のルルサス防府2階多目的ホールに開館されたドラマ館には、出演者の方のサインや文や楫取素彦、姉寿の衣装なども展示されています。

防府の観光情報や、『花燃ゆ』ゆかりの幕末の史跡などの情報をゲットするのにも便利。まずは、ドラマ館から防府の散策をスタートしてはいかがでしょうか?
ドラマ館の開館時間などは、下記MEMOをご覧下さい。

防府ブランド「幸せます」で幸せが増しますように♡

防府ブランド「幸せます」で幸せが増しますように♡

写真:村井 マヤ

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防府市のドラマ館には、ドラマ制作の裏方を体験できる写真撮影スポットもあります(基本ドラマ館内は、撮影禁止です。撮影スポットのみ撮影可)。また、萩往還(萩と三田尻をつなぐ街道)の終点にあたり、毛利藩の公館として萩藩2代藩主毛利綱広によって建てられた三田尻御茶屋(英雲荘)のジオラマ展示もあります。この英雲荘は、坂本龍馬や高杉晋作が密議を交わした場所でもあり、藩主が参勤交代の際や領内巡視の際に宿泊場所として利用された歴史ある建物なんですよ。このジオラマを見れば、英雲荘にも行って見たくなりますから、まずは下調べと思って、ドラマ館へ。

また、防府に到着すると、写真のような「幸せます」の文字を頻繁に目にされるかも知れません。これは山口県の方言で、「幸いです、便利です、ありがたいです・・」という意味。防府では、これに「幸せ増す」という意味を加えて地域ブランドにされたそうです♡防府天満宮の梅にちなんでか、ほのかなピンク色が可愛い地域ブランドのお土産の数々も素敵ですよ♪

写真は「幸せます」の文字をかたちどった枡です。

男爵楫取夫妻の眠る大楽寺へ、有名な女優さんのお墓も・・

男爵楫取夫妻の眠る大楽寺へ、有名な女優さんのお墓も・・

写真:村井 マヤ

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防府市では、「ほうふ花燃ゆ周遊バス」を運行しています。周遊バスの運行期間は、ドラマ館と同じで平成28年1月11日まで!観光の際は、周遊バスをご利用になると便利ですよ。また、レンタサイクルをご利用になってもよろしいでしょう。

今回の旅は、『花燃ゆ』の文を主人公にした小旅行バージョンのご案内です。ドラマ館でNHKの大河ドラマの雰囲気を十分楽しみ、文のこともちょっとだけお知りになったら、是非お墓参りにも行かれて下さい。

文は、楫取素彦と再婚した明治16(1883)年に、正式に「美和子」と改名しました。それ以前も御殿名として美和を名乗っていたようです。最初の夫・久坂玄瑞を21歳で亡くし、14代藩主毛利元徳の正室銀姫(のちの安子)の「御次女中」になった文。その頃。久坂家を守っていた文にショックなことが起こりました。

久坂玄瑞亡きあと、久坂家は楫取素彦と文の姉寿の次男(久米次郎:玄瑞生前に養子とする)に相続されましたが、明治2(1864)年に久坂玄瑞の忘れ形見が現れたのです。
その子は、京都の花柳会の女性・井筒タツの息子・秀次郎(当時6歳)でした。久坂によく似ていたそうで、現在残る久坂玄瑞の肖像は、この息子さんがモデルなんだそうです。

結局、この秀次郎が久坂家を相続し、久米次郎は楫取家に戻り、文を杉家に復籍しました。文は、生涯久坂玄瑞を忘れなかったそうです。晩年にいたるまで、久坂玄瑞の命日に参拝をしていたのだとか。忘れられない最愛の人だったのでしょうね。

楫取美和子は、桑山公園の麓にある大楽寺に夫とともに眠っています。また、この大楽寺には女優の夏目雅子さんのお墓もあります。若くして亡くなった美しい女優さんでしたよね。

高杉晋作の最期を看取った野村望東尼終焉の地や墓碑も

高杉晋作の最期を看取った野村望東尼終焉の地や墓碑も

写真:村井 マヤ

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さて、この桑山公園には、高杉晋作を看取った野村望東尼(のむらぼうとうに/もとに:1806-1867)の墓碑があります。この野村望東尼も、幕末に生きた波乱万丈な女性の一人です。晋作が病床で詠んだ「おもしろきこともなき世をおもしろく」という上の句に「すみなすものはこころなりけり」と続けたのが望東尼でした。彼女が亡くなったのが、この防府の地だったのです。

楫取夫妻は、最後まで望東尼を気遣っていたとのこと。桑山公園に残る墓碑は、明治26(1893)年に望東尼の贈位とともに建立されたものです。

写真は、望東尼終焉の宅碑です。野村望東尼は歌仲間の荒瀬百合子の自宅に身を寄せていました。そこは、望東尼の終焉の家でもありました。その荒瀬家は解体され一部が桑山山麓の大楽寺近くに移築されたのです。これは、その場所を示す碑。本当の終焉の地荒瀬家は少し離れた場所にあります。

男爵夫人楫取美和子として華麗なる転身!晩年は防府の邸宅で

男爵夫人楫取美和子として華麗なる転身!晩年は防府の邸宅で

写真:村井 マヤ

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明治16(1883)年、楫取素彦と杉文が再婚。この時、正式に美和子に改名しました。美和子はこの再婚を最初は拒んだそうです。理由は、兄・吉田松陰が女性の再婚は許さないと教えていたからとか。でも、文の母・滝の説得で、再婚を承諾しました。久坂玄瑞が亡くなって約20年経てのことでした。

素彦と美和子の間には子供はいませんでした。自分の子供には恵まれなかった文ですが、楫取と結婚し美和子としての後半生は、従二位男爵楫取素彦の華族になり、男爵夫人として多忙な日々を送ったようです。華麗なる転身ですね。

晩年は、楫取素彦が田舎暮らしを望んだため、明治26(1893)年に防府に住むことになりました。萩などにも家を持っていましたが、終の棲家として防府を選んだのは、瀬戸内沿岸の温暖な気候や、東京に定期的に通うために便利だったのではないか、と言われています。というのも、楫取素彦は貴族院議員で国会開設中の12月から3月まで東京に滞在しなければならなかったからです。

防府は、小さな町ですが、桑山公園から眺める天然の良港・三田尻港や防府の町は、どこか牧歌的でのんびりとした風情です。

防府の邸宅は、500坪の広さがあったそうです。ちょうど萩往還に面した通りでお墓のある大楽寺もすぐ近くにあります。

楫取美和子の純愛に触れ〜「幸せます」♡

楫取美和子をはじめ、野村望東尼もそうですが、幕末から明治を生き抜いた女性はみなさん波乱に満ちた人生を歩んでいます。時代に翻弄されながらも力強く、人を愛して、人生を模索しながら生きたのではないでしょうか・・。防府の町を散策しながら杉文こと楫取美和子の足跡を歩いてみるのも面白い旅になるでしょう。古代からの史跡も多い防府の町で、歴史散策、瀬戸内海に面した防府では海の幸も堪能できます。さあ!防府で「幸せます」を合言葉にして♡

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/01/18 訪問

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