堀を隔てた北側からの名古屋城天守閣です。美しさの中に気品が感じられます。銅板葺きの屋根は酸化して青緑色を帯びています。屋根も変化に富んで美しく、天守大棟には名古屋城の象徴ともいえる金鯱が輝いています。名古屋城の別名が「金鯱(きんこ)城」と呼ばれる所以です。
鯱とは、頭が虎、体が魚の姿をした空想上の生き物です。水を噴くと言われており、防火の守り神として多くの城の屋根に載せられました。名古屋城はこれを金にしたのです。当時の慶長大判で1940枚を使用しました。藩が財政難になると鯱の金純度を下げて鋳直し、小判を生産したという話も残っています。
さて、名古屋城の縄張は、梯郭(ていかく)式縄張と呼ばれるものです。北が低湿地帯で自然の要害をなしているので広大な水堀で北の守りは了として、主に南側からの攻撃を想定し二の丸、三の丸も南に向かって連続に配置されています。このように一方向に守りを固めた縄張を梯郭式縄張と呼びます。
大まかな名古屋城の縄張は、名古屋城HPにも掲載されているガイドマップに、現在は「三の丸1丁目」「三の丸2丁目」「三の丸3丁目」「三の丸4丁目」となっている三の丸を加えて、はじめて完成します。三の丸部分は道路地図を参照すると分かりやすいでしょう。
なお、三の丸を囲む外堀は現在も名残を留めており、東側は土塁(戦略的な盛り土、土の防御施設)、空堀(水を引き入れていない堀、規模が大きければこれで充分だった)ともによく残っています。また、三の丸の各虎口には現在も橋が架かっています(本町橋、御園橋、清水橋がそれにあたる)。
三の丸を侵攻すると、次に見えてくるのが西の丸か二の丸です。ここで敵の侵入を阻む桝形虎口が見られます(かつては本町門にも存在していたようです)。
名古屋城ではこれら主要虎口を石塁の桝形で固めるだけでは足らずと判断し、多門櫓で囲み、まさに鉄壁の防御を誇っていました。要所要所をしっかりと押さえて守るのが名古屋城の真骨頂です。これを抜けるためには相当な激戦、はたまた長期戦を覚悟する必要があります。
写真は二の丸の東門に残る桝形虎口になります。手前と奥に門が、石垣の上には立派な多門櫓がそびえていました。
さあ、表口である西の丸虎口・榎多門を突破することができれば、巨大な天守閣まですぐです。本丸に立つ西南隅櫓・東南隅櫓に守られた大手馬出が最後の関門です。その奥に本丸へと通じる表二の門が立ちます。
西南隅櫓、東南隅櫓はともに重要文化財に指定された貴重な建物です。外観は2層、内部3階の入母屋(いりもや)造りで出窓の下に石落を設けています。かつては両脇に多門櫓を接続した壮大な櫓でした。写真は東南隅櫓です。
参考までに破風について説明します。写真に見られる屋根の三角に突き出した部分や大きく湾曲した部分を破風と呼びます。左の2階の破風が入母屋破風で、これがあることによってこの建物が入母屋造りと判別できます。左1階の破風は切妻破風、右2階が唐(から)破風、そして右1階が千鳥破風です。
さて、話を戻しましょう。残念ながら大手馬出は現存していません。かつては表二の門の前に大手馬出という角馬出(四角形の馬出で周囲を石垣で固められている)を配置していましたが、埋め立てられてしまい西の丸と区別がつかなくなっています。大手馬出はありませんが、もう一つの搦手馬出(からめてうまだし、本丸裏門の馬出のこと)は健在です。
本丸御殿は尾張名古屋藩主・徳川義直の住居として慶長20(1615)年に建てられました。そののち、将軍上洛の際の宿泊施設として利用されるようになり、上洛殿も増築。それによって、二条城二の丸御殿と並ぶ絢爛豪華さ、書院造の最高傑作でありながら、殿舎の種類・棟数も屈指。徳川家の権威を示す天下無類の御殿となったのです。
空襲により天守閣共々消失してしまいましたが、平成30(2018)年の完成を目指し復元工事を進めています。平成27年現在は第1期の工事を終了し、玄関と表書院の見学が可能です。翌年には第2期の工事も完了して対面所などが見学可能となります。
いわば新築とあって歴史の重みこそ感じられませんが、美しい木曽ヒノキの柱、格調高い格天井、金色の釘隠しは圧巻で、とりわけ金、金、金の障壁画の美しさに目を奪われます。
この障壁画はかつての本丸御殿に実際に使われていたものを忠実に復元したものです。実物は存在しており、その多くが重要文化財のようです。天井板絵を合わせると重文指定のものでもその数1047面。本丸御殿が完成するとそれらの復元を通覧できるようになると言うことになります。
もしも、このように名古屋城を攻め、本丸まで到達できたとしても、城主はすでに脱出していることでしょう。その理由がこの埋門です。
埋門は石垣や土塀の中にあけた門のことを言います。この門があるのは二の丸北西。城が危険な場合、城主はこの門を潜り石段下の壕を経由しながら城のすぐ西を流れる勝川を遡り、徳川菩提寺の定光寺を経て、木曽路に落ち行くことが決まっていたのです。
さらに、天守閣自体にもこれとは別に、南西へ7.5キロ先にある徳川家祈願所の興正寺とを結ぶ地下通路が存在したと言われています。こちらは伝説の域を脱しませんが、格も石高も獲得した大藩・尾張名古屋藩であることを考えれば「全くあり得ない話ではない」と思ってしまうのです。
「戦のための城」という部分を主に、「権威の城」という側面を添えてご紹介してきました。「戦のための城」という側面からの名古屋城はこれでもまだ語り尽せてはいませんが、ここで名古屋城の文化的重要性についても説明したいと思います。
まずは庭園。先に紹介した埋門付近には二の丸庭園があります。こちらの庭園は豪勢なことで知られ、その北庭の石組は渓谷の美しさをよく表現し、素晴らしいです。茶亭も造られており、水琴窟(すいきんくつ、瓶の中に水を注ぎ、琴を弾くような水の音色を楽しむ庭園の意匠)も楽しめます。
次に陶器です。戦国時代に衰退した瀬戸焼の再興に大きく貢献したのが、城主・徳川義直その人でした。瀬戸赤津の陶工たちを呼び、徳川家の御用窯を本丸北西の御深井丸(おふけまる)に開いたのです。淡く青色に発色する釉薬を御深井釉と呼び、現在も赤津焼に取り入れられています。御深井釉は灰釉、鉄釉、黄瀬戸、古瀬戸、志野、織部と並ぶ瀬戸焼の特徴を表す七釉の一つに数えられ、瀬戸焼の大切な一要素となっているのです。
「伊勢は津で持ち、津は伊勢で持つ。尾張名古屋は城で持つ」
名古屋へお越しの際は、尾張徳川家61万9000石の巨大城郭をぜひご堪能ください。
料金 500円
営業 9時〜16時30分(天守閣。本丸御殿は16時までに入場)
休日 12月29日〜1月1日
※説明のない城郭用語については、MEMOのリンク「文化薫る丹波の町で徳川の堅城を攻略しよう〜篠山城〜」をご参照いただけると幸いです。
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