文化薫る丹波の町で徳川の堅城を攻略しよう〜篠山城〜

文化薫る丹波の町で徳川の堅城を攻略しよう〜篠山城〜

更新日:2015/02/09 11:34

兵庫県篠山市は、江戸時代を彷彿とさせる商家の街並みや、古陶・丹波立杭焼の本場、丹波杜氏を輩出した酒造りの町として知られています。この文化程度の高い町は、江戸初期に築城された篠山城を中心に発達しました。

天守閣はなく、建築物は二の丸に大書院が復元されているのみですが、この城無しでは丹波篠山は語れません。そこで、篠山城の魅力をじっくりご紹介します。

華やかな文化の町に反して、城はシンプルかつ実戦本位の構造

華やかな文化の町に反して、城はシンプルかつ実戦本位の構造
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篠山城は、徳川家康が豊臣氏の居城である大坂城を包囲する目的で築いた城です。
写真は城の縄張(なわばり、いわば間取りのこと)の描かれた図になります。回の字を描くように外堀・内堀を掘り、天守台や大書院のある中心部を堅く守ります。こうした回字型の構造から篠山城を輪郭式縄張という縄張の種類と判別できます。

3か所ある虎口(こぐち、城の出入口のこと)は馬出(うまだし、虎口の前に造られた陣地。虎口に攻め入ろうとする敵をここで迎撃した)と桝形(ますがた、攻め入った敵を3方向から迎撃できる四角い空間。桝形を持つ虎口を桝形虎口と呼ぶ)で徹底的に固められていたことが分かります。

典型的な近代城郭の特徴を備えた篠山城は明治維新以降、ほとんどの建物が取り壊され、唯一残っていた大書院も火災によって焼失してしまいました。しかし、石垣や堀、馬出などの遺構がほぼ原形を留めており、この点において篠山城は貴重な存在です。

なお、天守閣は最初から存在していません。その理由は「築城を急いだため」「実戦向きの城に仕上げるため」など諸説ありますが、恐らく理由は後者。歴史上、天守閣が実戦で機能したことはなく、攻撃の対象となる天守閣はむしろ不要と判断したものと思われます。

最初に攻城を阻むは石垣で固められた小さな陣地、東馬出

最初に攻城を阻むは石垣で固められた小さな陣地、東馬出
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先述したように篠山城の3つの虎口、追手門・東門・南門には馬出が存在していました。そして、そのうちの東門と南門には現在もその馬出が残っています。

馬出とは、城門前の堀に架かる橋の先に設けられた小さな陣地です。虎口を攻める敵に攻撃する際の足掛かりにすることができ、仮に敵に占領されても城内に影響がありません。

篠山城は戦場となることはありませんでしたが、戦となった場合、まずこの小さな陣地をめぐる攻防戦が繰り広げられることになります。近代城郭に現存する馬出は全国的にも貴重な存在です。この馬出を一目見てから篠山城へ参りましょう。

すぐに篠山城ハイライト、二の丸大書院

すぐに篠山城ハイライト、二の丸大書院
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北東の三の丸入口にあたる東門から内堀、内堀に面した二重の桝形を抜けるとすぐに篠山城のハイライト。復元された二の丸大書院に至ります。
大書院は入母屋造りで屋根は柿葺き。広縁(ひろえん、幅の広い縁側)が8つの部屋を取り囲むように設けられ、一大名の書院としては破格の規模を誇ります。かつてはこれのさらに両脇に小書院と広間を設けていました。

大書院で最も格式の高い上段の間は、大床(内側の広い庇)や付書院(床の間脇の縁側に張り出した棚)、帳台構(敷居を高くして丈の低い豪華な襖を立てた装飾の一種)を備えた正規の書院造りです。外観からは想像ができないほど煌びやかです。
写真は次の間から見た上段の間になります。

是が非でも攻め込ませない、二の丸埋門

是が非でも攻め込ませない、二の丸埋門
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中心部への表口は桝形を敷地の内側に造った内桝形虎口のため、外部からはその堅牢さは分かりません。その一方で、裏口は外側から見てもその攻め込みにくさがよく分かります。

まず裏口へ向かおうとすると、馬出曲輪(うまだしくるわ)と呼ばれる馬出を強化したスペースに阻まれます(現存せず)。さらにこの曲輪を抜けても細い坂道を伝いながら高石垣を登らなくてはなりません。多勢で攻め込めない上に、攻め込めば守城側からは格好の標的となってしまうのです。

そして、ダメ押しにこの埋門(うずみもん)です。字のごとく石垣に埋まるように造られており、扉は小さな木戸になっています。かつては門の上に多門櫓(長屋状の防御施設)を設けていました。また、門の横の石垣を屈曲させて死角を無くす工夫(これを横矢と呼ぶ)も見られます。

非常時には埋門を閉鎖。たかが小さな木戸に対して多門櫓と横矢で多方向から迎撃する鉄壁の防御の構えを見せています。
このように裏側を明らかに堅牢にすることで攻城側を比較的攻めやすそうな表口に誘い込み、内桝形虎口で徹底的な攻撃を加えようとする狙いでしょうか。

篠山城の歴史と今

篠山城は築城の名手・藤堂高虎が縄張奉行となり、15か国20の諸大名による天下普請で築城されました。天守閣は設けず、一見シンプルなようで戦略的。「能ある鷹は爪を隠す」という言葉を体現したような洗練された縄張はさすが築城の名手です。

初代城主から明治時代を迎えるまで、徳川譜代の有力大名がこの地を治めてきました。明治維新となると廃城になり、ほぼ全ての建物が取り壊されてしまいました。そのなかでもただ一つ、保存を願う人々の努力により大書院は残され、学校や公会堂などに利用されていました。
しかし、その大書院も昭和19(1944)年の火災により焼失してしまいます。

しかし、地元篠山市民の再建の願いとともに寄付が集まり、平成12(2000)年に総工費12億円を掛けて復元され、現在に至ります。大書院内部には江戸期以降の丹波篠山の歴史が紹介されており、町歩きの事前学習にも良いです。

ただし、城内では復元工事が長期にわたって行われているようです。特に城の南側は立ち入りを制限されている場所があると思われるので、その点ご留意下さい。

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