すべては菅原道真の難破から!?『今治・綱敷天満宮と松山・履脱天満宮』

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すべては菅原道真の難破から!?『今治・綱敷天満宮と松山・履脱天満宮』

すべては菅原道真の難破から!?『今治・綱敷天満宮と松山・履脱天満宮』

更新日:2015/02/12 12:05

中井 靖のプロフィール写真 中井 靖 お遍路ナビゲーター

愛媛県今治市桜井にある綱敷(つなしき)天満宮と松山市久保田にある履脱(くつぬぎ)天満宮。約40km離れたのふたつの天満宮は、菅原道真の難破から始まったご縁で繋がっていたのです!
大宰府に左遷を余儀なくされた道真は、船旅の途中で嵐に遭い、船は難破。里の漁師に助けられた地が今治であり、今治を発して陸路で向かった先が松山でした。今回は「単なる天満宮つながり」では片づけにくい両宮のご縁を訪ねてみましょう。

1100年以上前に学問の神様がやって来たという伝説

1100年以上前に学問の神様がやって来たという伝説

写真:中井 靖

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綱敷天満宮は今治市中心部から約6km離れた場所に位置。神社のある志島ヶ原(ししまがはら)は、燧(ひうち)灘に面し、11ヘクタールの広い境内には約3000本のアカマツやクロマツが群生。同地は昭和16年(1941年)に国の名勝に指定、後に「松原百景」にも指定され、夏のシーズンにはたくさんの海水浴客で賑わう風光明媚な場所です。
その場所に1100年以上前に学問の神様で有名な菅原道真がやって来たという伝説が色濃く残っているのです。

都の政争に敗れた道真は失意のうちに都を離れ、一路、大宰府を目指して船旅に出ます。しかし途中で嵐に遭い、船は難破。里の漁師に助けられたのが今治・志島ヶ原だったのです。
その際に道真が座る敷物がなく、代わりに差し出されたのが漁師たちが使う漁網であり、それが由来で「綱敷」の社名に、また「志島」は道真が海に投げ出された際に「早く島に上陸したい」と願ったことに由来しています。

道真の伝説が残る広い境内

道真の伝説が残る広い境内

写真:中井 靖

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現在の社殿は享保5年(1720年)に松山藩主松平家が建立したものとされますが、当時の志島ヶ原は今治藩でなく松山藩が治めていたことも興味深い事実です!

さて広い境内には道真にちなんだ名所が数多く残っています。
「座牛」は各地の天満宮に見られますが、大宰府で亡くなった道真を運ぶ牛車が途中でまったく動かなくなり、その地で埋葬されたのが大宰府天満宮のはじまりとされ、以来、天神様と牛はセットで考えられるようになり、いつの頃からか天満宮には必ず牛が鎮座、その牛を触れば、ご利益があると言われるようになります。
「筆塚」は使い古された筆や鉛筆を納めると字が上達するとされ、写真のように遭難当時の道真の濡れた烏帽子・冠・装束などを干した「衣干し岩(えぼしいわ、きぬぼしいわ)」が現存します。
また境内は梅の名所として名高く、600本以上の梅が植えられており、梅をこよなく愛した道真の一端を感じることもできます。

梅の名所として知られる綱敷天満宮

梅の名所として知られる綱敷天満宮

提供元:大成経凡

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「こち吹かば 匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春をわするな」
この歌は道真が政争に敗れ、延喜元年(901年)に北九州の大宰府へ向かって出発するときに、自宅の庭に咲いていた梅の花に向かって読んだ有名な歌です。春になり東風が吹くようになれば、花を咲かせて香りを届けておくれ、梅の花よ、主人がいなくても春を忘れないでおくれ、という意味であり梅をこよなく愛した道真のやさしい心が歌にこめられています。

綱敷天満宮では毎年2月下旬(2015年は2月22日)に観梅会が開かれ、園内は紅梅や白梅の木がたくさんの花を咲かせます。その日は合格祈願や学業成就などを願う大勢の参拝者が訪れます。写真は去年の観梅会の様子で、当日は駐車場が閉鎖され公共交通機関のみの運行になります。

今治から松山まで歩き続けた道真は…

今治から松山まで歩き続けた道真は…

写真:中井 靖

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のどかな田園地帯に忽然と姿を現すのが松山空港のすぐ近くに鎮座する履脱天満宮です。
履脱天満宮は長保元年(999年)に一条天皇が社殿を建立し、道真を祀って履脱天満宮と称したとされ、永正元年(1504年)には豪族・河野通篤が土地を寄進。江戸時代になって、松山藩主松平家が社殿を再建し、代々の藩主が参拝して祖先神として厚く敬ったとされます。
「履脱」の由来は、道真が今治を出て陸路で大宰府に向かう途中、歩き疲れて靴を脱ぎ、その場所でくつろいだことが名前の由来とされます。
結局、道真はこの場所が気に入り、その後3年間も留まることになり、都ではあまりにも逗留の長い道真に対して、大宰府に向かうように促したとされます。

このように今治と松山の天満宮は道真伝説による深いご縁で繋がっていたのです。
さらに両宮を庇護した藩主(松平家、久松家)の祖先が菅原道真本人にたどりつくことも興味深い歴史であると言えます。

境内に残る道真伝説を見よう!

境内に残る道真伝説を見よう!

写真:中井 靖

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写真は勅使(ちょくし)橋です。
道真がこの地に逗留し過ぎたことで都から「大宰府に赴任を促す目的で」勅使が派遣されます。その勅使を迎えた橋がこの勅使橋です。元々この橋は現在地よりも西側にある洗地川に架かっていたもので、昭和62年(1987年)に天満宮に移設、保存されています。当時の洗地川は狭い小川であったことから、この石橋で十分な役目を果たしていたようです。

都の催促を受けた道真は天満宮の近くにある吉田浜から大宰府を目指して船旅に出ます。村人に対して道真は「今からこの地を出ます」と言い残したことからこの地が「今出(いまで)」と呼ばれるようになったとか。

ところで道真の大宰府左遷にちなんで瀬戸内沿岸には道真伝説と天満宮が数多く残されていますが、仮にすべての伝説が実話であるとすれば、道真は大宰府に到着する頃にはかなりの老人になっていることに違いないことを最後に記しておきます。

伝統と歴史のある町を感じてみよう!

いかがでしたか?

今治市桜井はかつて伊予国国府が置かれ、唐子(からこ)山の山頂には国府城が置かれていた由緒ある地域でした。
また桜井漆器の産地として知られ、漆器は当時、高額であったことから桜井商人は割賦販売を編み出し、割賦販売発祥の地とも言われています。
最近ではサッカーワールドカップ元日本代表監督の岡田武史さんがFC今治のオーナーに就任、同地にあるサッカー場で指導する姿を見る事もでき、桜井は今治でも注目される地域になっています。
履脱天満宮に隣接する安楽寺は、本尊が聖観音(現在は十一面観音)であり、道真の守り本尊と同じであったことから長期間逗留に結び付いたとされ、興味深いお寺です。

ぜひ足を運んでみてください!

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/02/22−2015/02/02 訪問

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