写真:小林 理沙
地図を見る鴻山は四男でしたが、兄達が早く亡くなってしまったため、跡取りとして期待されていました。
15歳から16歳まで京都や江戸に遊学し、儒学などの思想や、書、浮世絵などの絵画も修めた当時を切っての文化人でした。
しかしながら、高井家の世継ぎとして期待された商才には乏しく、家業は弟に任せていました。
鴻山の生きた時代の日本は、幕末の変革期でした。鴻山は高井家の財力を投じて変革に関わりました。さらに飢饉の際には困窮者の救済も行い、慈善家としても社会に深く関わりました。そこに鴻山が貫いた「国利民福」の信条を伺うことができます。
写真:小林 理沙
地図を見る記念館には鴻山の書画が数多く展示されています。
巨大な筆とともに展示される大迫力の「書」から、写真右に見られるような鴻山が得意とした「妖怪画」も見所の一つとなっています。
北斎の門下生となっていた鴻山でしたから、作品には師の作品の模写も多く、その他の作品にも北斎の影響が色濃く出ています。
また、師弟の合作も展示されています。
写真:小林 理沙
地図を見る北斎との交流が始まったのは、鴻山が30代の頃。
北斎は90歳近く生きましたが、83歳の時に小布施の鴻山を初めて訪ねています。その時、鴻山は37歳でした。
鴻山は北斎を先生と、北斎は鴻山を旦那様と呼び合いました。師弟関係にあったとはいえ、親しさを伺い知ることができます。
北斎を慕っていた鴻山は、「青いさざなみ」の意味を持つこのアトリエを北斎のために建てました。
建物の1階にあるアトリエは、壁に鴻山による「碧漪軒」の書が入った額がかけられてある他は、至って質素な和室です。
北斎は日課として毎朝獅子の絵を描いていたそうですが、描き終わらないと、来客があっても接見しなかったというエピソードなども展示され、訪問者の好奇心を掻き立てます。
写真:小林 理沙
地図を見る北斎のアトリエの上階には、「翛然楼(ゆうぜんろう)」と名付けられた鴻山の隠居所あります。書斎兼サロンとして使われました。
写真左上に見られるのは、鴻山直筆の額です。
部屋には、鴻山が愛した楽器「一絃琴(いちげんきん)」が置かれています。楽器とともに簡単な楽譜と爪が置かれており、訪問者が珍しい一絃琴を奏でられるよう用意されています。
幕末から維新に文人墨客や幕末志士がここに通されました。北斎を筆頭に、思想家で松代藩士の佐久間象山、長州藩士の久坂玄瑞、書画家で志士の藤本鉄石をはじめとする広い分野の人が訪れました。
中でも佐久間象山とは、写真手前に写る鴻山愛用の火鉢をはさみ、政治についての熱い討議を交わしたと言われています。
この「翛然楼」と「碧漪軒」のある建物は、高井邸の中で、唯一京間風の造りです。障子の外には、雁田山を望む風景が広がります。それは、まるで京都の町屋から東山を見渡すかのような風情があります。
写真:小林 理沙
地図を見る高井鴻山は、栗菓子で知られる「小布施堂」と「桝一市村(ますいちいちむら)酒造場」を経営する市村家の12代当主でもありました。
小布施町は栗の産地としても知られています。
本店でしか味わえない栗のアイスクリームやお菓子もあり、本店に行くだけの甲斐がありますが、型崩れの心配もなく、日持ちもする栗ようかんもお土産にうってつけです。
小布施町は小さいながらどこか風格が漂う町です。その功労者は間違いなく高井鴻山でしょう。
鴻山は維新後には教育立県を強調し、東京や長野に私塾を開いて教育活動に力をいれました。
北斎をはじめ、文化人を招き、小布施町を文化の香り高い町に育て上げました。
小布施町には、北斎最晩年の最大の作品である天井画「八方睨み鳳凰図」がある岩松院(がんしょういん)や、他の作品を収める北斎館があります。高井鴻山記念館とともに、北斎の足取りをたどるには実にふさわしいところでしょう。
記念館の近くは、当時の風景を思い起こさせるように修景されており、江戸時代後期から明治初期の雰囲気を感じることができます。
意外なほどおもしろい高井鴻山記念館に是非行ってみてください!
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(2024/10/10更新)
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