写真:古都の U助
地図を見る本圀寺は、最寄りの京都市営地下鉄・東西線の御陵駅から徒歩15分ほどの道のりです。
地下鉄・京阪御陵駅から三条通りに出ると、山科御陵郵便局があります。その手前の道を北へまっすぐ向かうと琵琶湖疎水沿いに出ますので、疏水に出たら右に行くと赤い欄干の正嫡橋が見えてきます。
疎水に架かる正嫡橋は参道の一部になっていて、橋を渡れば境内へ入っていきます。
疎水沿いは、春は桜や菜の花、夏は緑と朱色の橋のコントラストが美しいです。
写真:古都の U助
地図を見る正嫡橋から少し行くと、琵琶湖疏水のそばの参道は、ちょっとした崖になっていて、木々の合間からは山科盆地の景色を眺めることができます。
本圀寺はもともと1253年(建長5年)日蓮聖人が鎌倉松葉ヶ谷に建立した法華堂がはじまりとされています。
日蓮聖人は時の権力者・北条時頼に文応元年(1260年)立正安国論を献じ、その中では蒙古襲来を予知する文面も書かれているといわれます。
日蓮上人は四大法難(伊豆法難、小松原法難、松葉ヶ谷法難、龍ノ口法難)といわれる数々の苦難を乗り越え衆生を救ったとされています。
とくに龍ノ口の法難は、現在の神奈川県藤沢市、龍ノ口の刑場で文永8年(1272年)9月13日子丑の刻(午前2時前後)斬首は執行された・・というのですが、文献などでは突如満月のような大きな光が現れ役人らの目が眩んだとか、執行人の刀が幾度も折れ、斬首に至らなかったなど、不思議な記録が残っています。
写真:古都の U助
地図を見る本圀寺はその後、1345年光明天皇より寺地を賜り京都六条堀川に移転し、「西の祖山」と呼ばれたそうです。
さらに昭和46年から風光明媚な山科の土地に移転しています。
また、古くは本圀寺は「本国寺」と書いたそうですが、水戸光圀が本国寺にて生母の追善供養を行い、その名から一字を下され「本圀寺」と改称されています。
現在の境内入り口には別名開運門と呼ばれる加藤清正公寄進の山門があり、平成8年修復され現在に至ります。この門を「南無妙法蓮華経」と唱えくぐると、清正公の勝運にあやかれるといわれています。
さらに山門の奥には中門がひかえ、中門の左右には仁王像が安置され、屋根にはシャチホコが飾られます。
写真:古都の U助
地図を見る上の写真左側は日蓮聖人像、中央が本堂、右は本師堂です。
本堂は昭和46年建築、コンクリート作りの立派なもので、隣には本師堂が建ち、日蓮聖人が亡くなるまで離さず拝まれたという持仏の釈迦如来像が祀られています。
本師堂の脇には九頭竜銭洗弁財天もあり、霊水でお金を洗い身に着けているとご利益があるといわれます。
本堂前には桜の木があり、春は疎水沿いと共になかなかの穴場となっています。
写真:古都の U助
地図を見るこちらは本堂の裏手(北側)にある加藤清正の娘、瑤林院(紀州藩祖・徳川頼宣室)によって建立された清正宮です。
賤ヶ岳の七本槍の一人として幼い頃から豊臣秀吉に仕え、後に肥後の大名となった加藤清正は、熱心な日蓮宗の宗徒でもありました。
豊臣家臣の中で特に武人の誉れの高かった清正公は、「南無妙法蓮華経」の旗で各地を駆け回り、人々に恐れられたと伝わります。
ちなみに清正公の得意技(?)に、握りこぶしを口に入れるという芸当があったそうですが、新選組の近藤勇は、尊敬する清正にあやかって、宴席などで握りこぶしを口に入れたりしたそうです。
四季折々に素晴らしい境内は、いたる所でパワー充電していただけると思います。
時間があれば門前の疎水沿いの散策も素晴らしく、天智天皇陵も近いです。
境内に入れば広い駐車場がありますが、途中の道は狭く、入り組んでいるので車はあまりおススメではありません。
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(2024/12/14更新)
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